露悪のロシアか偽善のアメリカか :ウクライナ侵略から新しい資本主義を考察する

アゴラ 言論プラットフォーム

近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。
(中略)
ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時、利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。

~夏目漱石『三四郎』より~

1. ロシア擁護的な?不思議な社会のセンチメント(感情)

私だけだろうか。ロシア擁護的な不思議な社会全体の空気をわずかなりとも感じるのは。もちろん、力による現状変更を企図するプーチン・ロシアの行為は許されるものではなく、私もその意思の体現において、日本の現在のスタンス(対ロ制裁に加わり、厳しくロシアの行為を非難)に異論はない。

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しかし、SNSなどでプーチンが「如何に悪手を指したか」というロシアを非難する方向に見える論考を書いてアップすると(書いている当人としては、当為というより冷徹な事実を書いているつもりなのだが・・・)、コメントの一定割合は、ロシア擁護的論調で刃として私に向かってくる。

最初は、こんな100対0でロシアに非があるような話で、よくそんなコメントが来るなぁ、と率直に思っていたのだが、やり取りをするうちに、少し背景が見えて来た。

おそらく、そうしたコメントの裏には、かつてのソ連時代、米ソ二強とも言われたロシアが格下のウクライナに押し返されている状況を見ての可哀想さ・哀れさという感情もあるだろう。

ただ、より強く透けて見えるのは、自由・民主主義などを普遍的な価値として押し付けんとするアメリカニズムへの反発、更に言えば、かつて国土を荒廃させられた日本人として、実は現実的なくせに、正義の仮面を被って正論と力で迫るアメリカという存在そのものへの反発である。

2.  アメリカの表面的勝利・成功と本質的失敗

改めて書くまでもないが、米ソ両国による戦争、一部の代理戦争を除けば、大きく言えば「冷戦」で済んだわけだが、これは、米国の圧倒的な勝利に終わった。フランシス・フクヤマ氏の『歴史の終わり』がブームになったのもこの頃(90年代前半)であるが、まさに、自由主義・民主主義といった西欧的価値観の勝利により、ヘーゲル的進歩史観の見方からは、歴史が終わった(西欧的価値へのアンチテーゼが出てこない)ようにも見えた。

先の大戦での敗戦後、好むと好まざるとに関わらず、米国陣営に加わり、戦後の繁栄を享受した日本は、いわば勝利側の一員として、その美酒に酔いしれた。自由や民主を越える価値はない、とその体現とも言える市場経済の中で、戦後、経済成長という果実を得て来た日本に他の選択肢はなかった。

最近のロシアのウクライナ侵略を受けて良く話題となるNATOの冷戦後の拡大が典型だが、表面的には、アメリカ的価値観、アメリカの勢力が益々世界に浸透するかに見えた。実際、そのように推移した。マクドナルドは、中国やロシアにも大きく展開し、米国の金融資本が各地に深く浸透していった。そういう意味では、アメリカの勝利・成功は疑う余地もない。

しかし、実情はそこまで単純ではなかった。戦争に勝利して、日本と同じようにアメリカ化出来るはずだったイラクや中東では、アメリカニズムは浸透を拒まれ、裏庭の中南米では、反米左派政権が乱立した。プーチン・ロシアは、国力の違いをものともせず、反米的スタンスを徐々に明確にしていき、事実上の資本主義国家として塗り替えたはずの中国は、一向に米国流民主主義を取り入れることなく共産党独裁の下で反米色を強めて行った。

そして今回、ロシアのウクライナ侵略に伴う経済制裁に参加した国は、200か国弱の世界の中で、わずか40か国程度である。繰り返しになるが、米国的スタンスから見れば、ここまで100対0のような圧倒的「悪事」に見えることについてすら、侵攻への非難決議に反対・棄権した国が40か国もあった。少し前に、国連で、新疆ウイグル自治区での人権のあり方について中国を非難した国は欧米を中心に43か国にのぼったが、その実、62か国が中国を擁護した。残念ながら、これが現実だ。

ソ連が掲げた共産主義ほどに劇的な敗北ではないが、実は今、米国流の自由主義・民主主義もまた、静かな挫折感を味わいつつある。本質的には、アメリカニズムは、世界を完全にカバーすることに失敗しつつあると見て良いだろう。

3. 文明というタガが外れた時の「文化」という露悪 / 露悪と偽善の共存時代

『歴史の終わり』がヒットしていた頃、ハンティントンの『文明の衝突』も世界で話題となっていた。ある意味、『歴史の終わり』の対をなす書籍であり、共産主義VS資本主義というイデオロギーの対立がなくなった世界では、むき出しの価値観同士が衝突するという不気味な予言をした本であるが、何となく、軍配は、現状では『文明の衝突』に上がりつつあるような気がする。

仮に、文化とは、民族等に固有なもので多元的であり、文明とは、国家や民族を越えて普遍的に伝播していくものだとすると、『文明の衝突』は、より正確には、『文化の衝突』と表現すべきものかもしれない。

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かつてのソ連共産主義・社会主義という「文明」がその伝播力を失って30年が経ち、そして今、自由や民主という普遍性をもって世界を覆うはずだったアメリカニズムにも伝播の限界があるとすると、世界は、『文化の衝突』の時代を迎えかねない。

最近のアフガンからのみじめな撤退、ウクライナへの及び腰な支援、台湾への曖昧戦略(バイデン大統領は、コミットを明言しつつもホワイトハウスが後から「政策に変更はない」と明言)などを見ていると、アメリカはもう、基本的には、そのアメリカニズムの世界への伝播を半ばあきらめ、アメリカファーストに回帰しつつあるように見える。その大きな傾向に関しては、トランプとバイデンに大きな違いはなく、共和党と民主党にも実は違いはない。

冒頭の夏目漱石の『三四郎』の広田先生が喝破しているように、本来、「偽善」と「露悪」はサイクリカル、つまり時代に応じて循環する。偽善というと言葉が過ぎるが、分かりやすいので敢えて使うと、人権、環境、社会貢献などの正義・建前を掲げて、自分を犠牲にしても他者のためと美しく生きようとし続けると、社会全体に無理・ひずみが来て、やがて開き直った露悪家が多数出現する。

そうして、本音で自分を大事に生きるスタイル、即ち露悪家が世にはびこり過ぎると、今度は、利害がぶつかり合って収集がつかなくなり、また調整のために、利他・偽善的な価値観が覆う世が現出する。

今は、世界を見渡しても、一つの国内でも偽善と露悪が併存する傾向が如実である。ロシアが悪いという意味ではなく、たまたま漢字がそうなるだけであるが、民族的エゴ・領土的野心を隠そうともしないプーチン・ロシアの露悪と、ギリギリ偽善を保っている民主党のアメリカの対立が、今回のウクライナを巡る争いの本質でもある。中国などは前者寄りであり、日本や欧州は後者寄りであることは論を待たない。

これがいわゆる分極化(polarization)だが、繰り返しになるが、同じ構造は、一国内でも頻出している。米国大統領選を見ても、先般のフランス大統領選を見ても、その傾向は明らかで、環境・人権・社会貢献などを大事にする余裕のある層と、極端な愛国思想等に酔いやすい低所得層(余裕のない層)の対立は如実だ。露悪と偽善の併存・対立時代がやって来てしまった。

4. どうする日本?/本当に新しい資本主義

紙幅が尽きてしまったが、筆者は、実はここにおいて、日本が国際社会に貢献する余地が多いにあると感じている。大陸中国への野心(露悪)を隠すことなく前面に出し、偽善のアメリカ(この文脈では、文字通り、偽善と言って良いと思う)に潰された経験を持つ日本。

優勝劣敗のダーウィニズムへのアンチテーゼ的に今西自然学を生み出し、灰色の哲学とも称される西田哲学を生み出した日本。短期間の間に、途上国と先進国を経験し、東洋でもあり西洋でもある(或いはどちらでもない)日本。

高い支持率の下で、来る参議院選挙の後、安定的多数を維持すると思われる岸田政権は、こうしたパースペクティブをもって、文化の多元性も意識しつつ文明化も念頭に置くような「新しい資本主義」を言語化し、世界の視座となる高みを目指してはどうだろうか。アメリカに押し付けられたはずの自由や民主を、日本の歴史で洗い直し、自らの言語として、改良・改変しつつ世界に伝えていく。

アメリカのトイプードルを脱しつつ、自らの言葉でアメリカへのコミット・リスペクトも達成・表明し、世界を安定に導く。日本は、そういう運命を期待され、その役回りを果たさねばならないと考えるのは、大げさに過ぎるだろうか。

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