ジョン・F・ケネディの影に隠れた大統領(後編)

アゴラ 言論プラットフォーム

NASAで演説を行うケネディ(壇上)、その横にジョンソン
出典:Wikipedia

抑圧されてきたアメリカにおける有色人種

ジョンソンが記憶されているのはベトナム戦争だ。彼はかつてはフランスとベトナム間の戦争のアメリカ化を推し進め、後戻りのできない状況にアメリカを追いやり、多大な犠牲をアメリカ人、ベトナム人に強いた。ジョンソンのレガシーはベトナム戦争と切っても切れない関係にある。

しかし、彼はケネディが成し遂げらなかった遺産を形にした。それは上記でも言及した公民権法案の制定だ。(ジョンソンは減税法案も法律にしている)ジョンソンが達成するまで長らく実現不可能なものだと思われていた。

(前回:ジョン・F・ケネディの影に隠れた大統領(前編)

アメリカにおいて有色人種は差別されつづけ、人間扱いされてこなかった歴史がある。黒人の場合は完全な人間として見なされておらず、初期の合衆国憲法では「5分の3条項」という形で存在が歪曲的に明記されており、奴隷制の下で劣悪な、非人道的な環境で労働を強制されていた。

南北戦争の結果、奴隷制は廃止され、黒人は自由を手にするはずだった。しかし、数百年もの間、隷属状態にあった黒人たちにとって急に自由を与えられたところで、独り立ちするだけの財産もなく、結果的には形式を変えた状態で実質的には奴隷であることに変わりはなかった。

1950年代に入ると少し状況が変わる。冷戦の勃発に伴い、アメリカはソ連と世界の覇権を争い始めた。その過程で足を引っ張ったのが国内の人種問題だ。ソ連はアメリカを貶めるためにアメリカにおける黒人問題を煽り、白人の圧政に苦しんできた新興国の支持を集めようとした。それに脅威を覚えたアメリカは道義的優位性を取り戻し、ソ連の拡張を抑えるために、人種差別的な政策の撤廃、公民権法の制定に乗り出す。公民権の問題にまず初めに真剣に取り組んだのはトルーマンであったが彼を含め、その後に続いたアイゼンハワーやケネディにとってそれは高い壁であった。

壁となっていたのはアメリカ議会の上院で、今でも存在するが上院には議事妨害という制度があり、それがあることにより5分の3の賛成が無ければ法律が通せない場合が存在する。上院の過半数が合意しようとも南部の「伝統的な」生活習慣を守りたい南部の議員たちは人種隔離の禁止を頑強に抵抗した。抵抗などするものなら、議事妨害が発動され、すべての法案の審議がストップし、政権が機能不全に陥る。ケネディもその被害者となった。

そのようなあまりにも高い壁をいとも簡単に壊したのが南部テキサス州出身で、南部民主党の有力者のパトロンとなることで権力の階段を駆け上ったジョンソンだというのは歴史の皮肉以外に表現することはできない。

権力は本性を現す

1963年のケネディ暗殺後に公民権法の制定を最優先課題として取り組むと議会で言明するまでジョンソンは有色人種、人種問題の改善を望む人々にとって敵に等しかった。

ジョンソンはジョージア州上院議員で、人種差別主義者として悪名高いジョージ・ラッセルを代表とする南部勢力の一員となることで政界で頭角を現した。上記の公民権法の制定を望む大統領たちが提案する措置に次々と反対した。

だだ、彼自身根っからの差別主義者だったわけではない。例えば、ジョンソンは若いころにメキシコ系アメリカ人の学校で教師として教えていた経験がある。ジョンソンがそもそも人種的偏見を兼ね備えた人物ならそこで働くようなことはしない。また、その経験から差別と貧困の問題を深刻さを思い知り、政治家としてライフワークとなった旨を後に述べている。メキシコ系の兵士が白人の墓地で埋葬されるのは拒否された時にそれに憤り、アーリントン墓地に埋葬される手配も行ったというエピソードもある。

ジョンソンの人生を長い目で見ると、弱者に寄り添う思いやりの心の持った人物という一面が浮かび上がる。だが、彼の伝記作家であるロバート・カイロが著書で述べるように、ジョンソンの思いやりは彼の野心と競合した際にほとんどの場合は打ち消されてしまう。

南部の議員たちが迎合し続けたことがその例だ。南部の合意がなければ一本の法案であっても通せない状況で議会で何かを成し遂げたい、議会での経験を基盤として大統領になる心づもりがあれば南部議員の協力は不可欠であった。

そのような状況を一変させたのがケネディの暗殺であった。ケネディの死去に伴いジョンソンは憲法の規定により大統領に昇格することになった。

ロバート・カイロによれば権力は腐敗するが、それは人の本性を現す力もある。ジョンソンの大統領就任後の変貌はまさにカイロが指摘する通りである。

上記でも述べたようにジョンソンは大統領就任後は公民権法を制定に勤しみ、長い議会での経験を活かし、反対勢力をアメとムチで切り崩し、説得し、あらゆる人種の隔離を違法にする公民権法の制定にこぎつけた。その後、有色人種が投票所で人頭税を課されることや筆記試験を課されるなどの差別的な対応を受けないことを目的とした投票法を通し、高齢者層や低所得者層向けの医療保険制度を創設した。

大統領となったジョンソンは偉大な大統領として後世に語り継がれたいという野心から、また彼の心の底で眠っていた思いやりに突き動かされ弱者を救済するための法律をいくつも作った。

権力がジョンソンの真の本性を現したのである。

権力を行使することに重きを置いた政治家

歴史家にはベトナム戦争さえ無ければジョンソンは本当に偉大な大統領として歴史に名を遺したであろうと指摘する人もいる。

ジョンソンは欠点が多い政治家であった。時に傲慢で、頑固にもなり、秘密主義なところもある。そういった性格のせいでベトナム戦争を回避することができなくなり、戦争が長引く過程で国民からの支持を失った。

だからといって、弱者救済のために勢力を尽くした一面を過小評価されてはならない。まだまだ人種の問題が残るアメリカだが、彼が公民権法を制定したおかげでアメリカは「すべての人は平等に作られている」という建国の理念に近づくことができ、有色人種の血を引いているアメリカ人として彼のレガシーの恩恵を受けている自分もいる。

昨今、変わらない政治の側面であるかもしれないが、権力を使って私腹を凝らし、権力があるにもかかわらず持っていることに満足をしている政治家が後を絶たない。ジョンソンのように弱者救済という崇高な目標のために権力を手にするだけでではなく、それを実際に行使して現実のものとするスケールの大きい政治家があまり見当たらない。

筆者は燦然と輝くケネディも好きだが、スケールの大きく、人間味のある政治家であるジョンソンも好きである。

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