ロシア・ウクライナ戦争が長期化してくるにつれて、概念構成をめぐる議論も引き起こされている。この種の深刻な政治問題は、言葉遣いを間違えるだけで、意図せず政治的な立場の表明をしてしまうことになりかねず、慎重さが必要である。
ウクライナ政府関係者に、ロイターが言葉遣いを添削される場面があった。
確かに、ロシア軍に軍事占領されたヘルソンのことを「親モスクワのヘルソン」などと表記してしまったら、もともと存在していた親露派の勢力が支配的である地域のことかと見間違えてしまう。軍事占領者と被占領者の関係が、占領地域における政治情勢の基本構図だとすると、それを「軍人・市民関係」などと言い換えてしまったら、占領地の実情を無視して中立的な言い方を取り繕っていると批判されるだろう。
日本の「どっちもどっち」「ロシアにも正義がある」論者の方々にしてみれば、占領を強調するのは、ウクライナ寄りの言い方だ、ということになるかもしれない。しかし表層的な言葉遣いで占領の現実を覆い隠すとしたら、それはもはや「どっちもどっち」ですらなく、単にロシア寄りである。
面倒なようだが、政治情勢が複雑な地域の状況を、言葉で概念構成していくのは、たやすい作業ではない。それはウクライナだけのことではなく、パレスチナであろうが、アフガニスタンであろうが、エチオピアであろうが、同じである。
ロシア・ウクライナ戦争か、ウクライナ戦争か
「ロシア・ウクライナ戦争」という私が使っている表現は、決して私だけが使っているわけでもないが、日本ではあまり多用されていない。「ウクライナ戦争」と表記してしまう場合が、かなり支配的になってきている。英語圏では「Russo Ukraine War」という言い方がより広く用いられている。もっとも、それでも「Ukraine War」と言われてしまうことがあるため、抗議の声が上がっていたりする。
恐らく戦争の実際の戦場がウクライナ領に限定されているため、「ウクライナ戦争」と短くまとめてしまいたい方がいるのだろうが、ロシアの侵略攻撃によって始まった戦争の部分を「ウクライナ戦争」とまとめてしまうのは、かなり思い切った概念設定である。
最近は主権国家同士の戦争は稀になっているが、近年の代表例としては、「エチオピア・エリトリア戦争」がある。エリトリアがエチオピアから分離独立した直後に発生した国家間紛争であったが、エリトリアが独立国家として存在していることに留意をした、「エチオピア・エリトリア戦争」という言い方が定着している。
私は世界の大多数を占める内戦を観察していることのほうが多いので、一国の名前だけをとった名称は、内戦向きであるような気がしてならない。「シエラレオネ内戦」「ルワンダ内戦」のようなものが代表例である。
明らかに国際的な紛争の性格を持っているにもかかわらず、一つの地域の名称だけで戦争が呼称されていることはある。「朝鮮戦争」や「ベトナム戦争」などである。これは戦争の基本構図が、当該地域の複数の勢力の間の敵対関係によって作られている、という理解を示している。内戦に外国勢力が介入してくることは、頻繁にある。それでも基本構図は、当該地域に特化した勢力の間の敵対関係によって作られている、という理解がある場合には、いちいち介入した諸国の名称を並べるようなやり方で戦争を呼称したりはしない。
国連安保理が発動した集団安全保障の権威を持った多国籍軍がイラクと敵対することを強調する場合に「湾岸戦争」と地域の名称を前面に出した言い方が好まれた場合もある。戦争の基本構図は、国際社会vsイラクだ、という基本理解を意識した名称だろう。
NATOはボスニア・ヘルツェゴビナやコソボにおける内戦に軍事介入したが、それはあくまでも外部者が軍事制裁を加える意図で介入しているにすぎない、という理解をするのが普通である。そのため「NATO・セルビア戦争」とか「NATO・ユーゴスラビア戦争」などといった言い方はしない。
アメリカが21世紀に仕掛けた2001年アフガニスタン戦争と、2003年イラク戦争は、「世界的な対テロ戦争(Global War on Terror)」の局地戦と位置付けられ、国際社会全体を代表するアメリカが、ならず者に制裁行為を加えているという図式を表現することを、アメリカ人が好んだ。そのため「米・イラク戦争」といった名称は避けられることになった。しかし03年のイラク戦争は特に、戦争の実態は、国際社会全体が行動しているかのような図式からはかけ離れていた。「米・イラク戦争」と呼ばれるべきものだっただろう。
今回の「ロシア・ウクライナ戦争」を、「ウクライナ戦争」と言い換えてしまうと、ロシアがウクライナにおける内戦などに介入しているだけだという基本構図を追認している言い方になってしまう。つまりウクライナ政府と、反政府勢力の間の戦いに、ロシアは外部者として介入しているだけだ、という理解を是認しているかのような言い方になってしまう。これはかなりプーチン大統領の世界観にそった理解である。少なくとも「ウクライナ戦争」は、ロシアとウクライナという二つの主権国家を対等に扱わない概念設定である。
「西側」とはどこか
私がもう一つ非常に気になっているのは、「西側」という概念だ。これは英語で「The West」と言われるものに対応している概念だと思われる。だが英語の「West」には、「西洋」といった文明論的な含意が内在しているが、日本語の「西側」の概念にそのような含意はないだろう。「西側」というのは、西の側、ということだから、東の側の反対の側が、「西側」だ。
厄介なのは、日本語においてすら、「西側」の概念を使うのに必須と思われる「東側」の概念が全く使われなくなってしまっていることだ。東側がないのに、西側だけが存在しているという奇妙な事態が生まれているのである。
「西洋」という含意もある「West」は、「West vs. Russia」といった概念図式とともに、用いられる。これによって表現されているのは、ロシアは西洋文明の一部ではない、という突き放した理解である。
実際のところ、EUやNATOの拡大によって、制度論的に見て、「東側」は存在せず、「西側」は欧州のほとんどを覆い尽くしている。今回の戦争によって、ウクライナも決定的にロシアから離反した。「ロシア側」に残っているのは、ヨーロッパ大陸では「白ロシア」を意味する言葉を国名に持つベラルーシくらいだ。これではとても広大な「西側」地域に対抗する「東側」を構成しているとは言えない。
あえてその他の親露的な国をあげれば、コーカサスのアルメニアや、中央アジア諸国などの旧ソ連を構成していた地域の諸国だけである。ロシアでは伝統的に「ユーラシア主義」の思想があるが、ロシアの影響圏は、「東側」というよりも、せいぜい「ユーラシア」の中央部に存在しているだけだ。それがEUが代表する「欧州」や、NATOが象徴する「西洋」と対峙している。
こうした実態を度外視して、「西側」という冷戦時代から続く概念を、無自覚的に使い続けていていいのだろうか。「西側」に対峙するロシア、といった概念構成をしてしまうので、あたかもロシアが一つの陣営を率いているかのような錯覚にとらわれ、「西側とロシア」が手打ちをすると戦争が終わる、と考えてしまう人々が後を絶たないのではないか。
概念構成は、学者的な話だが、社会科学の分野では、学者だけで決めていけるわけでもない。社会的な認知が必要だからだ。
この機会に、日本人も、高度に政治的な状況においては、言葉の選択も高度に政治的になる、ということについて、感覚を養っておいたほうがいいように思う。