ニュージーランドは、たばこ製品を購入できる年齢を段階的に引き上げることで、長期的に国全体での禁煙を実現する計画を発表した。文筆家の御田寺圭さんは「新型コロナウイルスのパンデミックを機に、健康が個人の権利よりも優先される社会になっていくだろう。これはその一例だ」という――。
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たばこを買えない年齢を引き上げ「禁煙国家」へ
世界で最も「政治的にただしい国」のひとつとして知られるニュージーランドにて、いま10代前半の子どもたちの禁煙を一生涯にわたって禁止し、今後その「禁止」の対象となる年齢を徐々に引き上げていく、驚きの計画が発表されたのである。
ニュージーランドは9日、たばこ製品を購入できる年齢を段階的に引き上げることで、喫煙を事実上禁止する計画を発表した。世界初の試みとされており、現在10代前半の若者は生涯にわたり合法的にたばこが買えなくなる。
時事ドットコム「NZ、たばこ販売禁止へ 2027年から段階的に」(2021年12月10日)より引用
政府は2027年からはその対象年齢を1歳ずつ引き上げ、最終的にはニュージーランド人すべてを「禁煙」とする見通しを立てているのである。
本来的には、個人が喫煙を楽しむことも基本的人権によって保障された自由のひとつである。しかしながら、世界でもっとも人権を擁護する国のひとつであるはずのニュージーランドでは、どうやら「喫煙する自由」は擁護されるべき基本的人権の中には含まれないようだ。
「健康であること」が倫理的規範になっていく
私はプレジデントオンラインを含めさまざまなメディアで、「健康」が個人の権利よりも優越する社会的なルールに君臨する「健康ディストピア」が到来する未来の可能性について記述してきた。その文脈において、とりわけ喫煙の自由は、近い将来において真っ先に失われる自由のひとつになるだろうと予言していた(〈「タバコを吸う人は悪人」コロナ後の世界では健康管理はモラルに変わる〉など)。
喫煙習慣が個人の健康を損ね、もって間接的に感染症や疾患のリスクをもたらす因子となってしまうことが、このパンデミックによって社会的に強調されてしまった以上、今後の人間社会において「喫煙」はこれまでのような扱いがされなくなる。「喫煙」は「不健康な趣味」から「社会全体にとって有害な悪行」へとスライドしていく。
個々人の健康状態が新型コロナウイルス感染症の重症化のリスクファクターとして、同時に公衆衛生上のリスクファクターとして確定された後の世界においては、「健康であること」は「あくまで個人的なものであり、人それぞれがなるべく目指しておく努力目標」ではなく「社会のインフラの安定化や秩序の維持のために、個人が必ず達成しなければならない倫理的規範」として格上げされていくことになる。
「不健康であること」が社会の悪となる
これを言い換えれば「不健康であること」あるいは「不健康になることはわかっているが、個人的な幸福が得られるからこそ、あえてそれを楽しむこと」は、たんなる自己責任の問題として社会的に放免されなくなり、人としてあるべき倫理的にただしい生活様式から逸脱した「社会に損害を与える悪」としてみなされ、ときに厳しく糾弾されるようになることを意味する。
健康が努力目標ではなく倫理的規範となった世界では、不健康者は「個人的に不利益を被っている自業自得の人」ではなくて、「社会のインフラや医療リソースを食いつぶし、社会の安定性にダメージを与える悪人」として扱われるようになる。
――と、私はパンデミックが起こった最初期の段階でそう予想的に述べた。
当初は私の主張にほとんどの人がまともに取り合うことはなかった。むしろ私のそうした予言を「全体主義者の妄想」とか「SF小説の読みすぎ」と嘲笑する向きも多かった。だが、結果はどうだろうか。この世界は着実に個人の健康増進を「規範化」あるいは「社会化」しようとしている。
「たばこ」の次は「酒」がターゲットになる
いまはとくに「たばこ」が批判のやり玉に挙がっているので、まだまだ対岸の火事として見ていられる人も多い。私自身も非喫煙者である。
しかしながら、「健康」が規範化される流れは不可逆的に加速しており、愛煙者たちの自由が倒れれば、次のターゲットは確実に「酒(飲酒文化)」になるだろう。
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酒は少量なら体によい――と俗にいわれるが、実際には少量でもアルコールを摂取すれば健康にはリスクであり、身体に侵襲的な作用を持っていることが確認されている(CNN「量にかかわらず飲酒は脳に悪影響 英研究」)。ただし酒は古代から人類社会に寄り添ってきた悦楽の源であり、たばこと同じかそれ以上に「不健康ではあるが、しかし幸福や快楽を得られる」という自由の象徴として人類とともに歩んできた。
健康であることが「社会の公益と安定性の向上にとって重要なもの」とみなされる世界では、やはり飲酒はいまのように「個人的な嗜好」のままではいられなくなる。不道徳で反社会的な営みとしてのコンセンサスがより鮮明になっていき、人びとから次第に忌避されるようになっていく。
マスクをせずに街を歩く者が一瞬にして重罪人になったように、飲酒することが看過しがたい社会的逸脱になる日はやってくるだろう(感染拡大防止策としての「飲食店での酒類提供禁止」は、酒が悪になる社会を一時的にではあるが疑似的に現実化してみせた)。
気候変動対策の観点からは「肉食」も批判されうる
人びとに倫理的な生き方を求めるのは、規範化していく「健康」だけではない。近年、先進各国で勢いを増している「SDGs」のスローガンもそうだ。「SDGs」の温室効果ガス削減(気候変動対策)の観点からは「肉食(畜産業)」も禁止あるいは縮小を求める流れが加速していくことになる。
牛肉や豚肉や鶏肉を食べるという行為は、旧来的な「動物愛護」の観点からの非難だけではなくて、「地球温暖化を促進し、地球環境の持続可能性を犠牲にしている」という文脈によっても厳しい非難の論調を向けられることになる。「肉を食べて幸せになる」という個人的な楽しみにすぎない営みが、問答無用で「人間社会」のマクロな倫理的問題に接続され、その是非を審問されることになる。
私は焼肉もすき焼きもしゃぶしゃぶも大好きだが、そう遠くない将来には、どこか後ろめたい気分をともないながらコソコソと店に行かなければならない日がやってくるのだろう。
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