この世には様々なカップラーメンがある。こってりしたとんこつ味からあっさりの塩味まで挙げればキリがないほどだが、その中身を伝えるのはいずれもパッケージだ。
そんなパッケージを眺めている内、作り方の説明が異様に丁寧なことに気づいてしまったので一緒に見てもらいたい。
迷わない、迷わせない
作り方の説明が丁寧すぎるとはどういうことか。
まずはおおまかなカップラーメンの作り方を思い浮かべてもらいたい。おそらくは次のような工程となるのではないだろうか。
- カップラーメンのフタを半分くらいはがし、中に入っている小袋を取り出す
- 粉末スープなど、一部の小袋を先に入れる
- お湯を入れて数分待つ
- 液体スープなど、あと入れが推奨される小袋を入れて完成
もちろんこの工程が間違いということではない。カップラーメンの種類によって多少の差異はあれど、上記の工程でおおよそ美味しくいただけることだろう。これから紹介するカップラーメンも特別作り方が異なるわけではない。
そう、この工程の説明が丁寧すぎるのだ。
例えばこのカップラーメン、さてフタを剥がしてみせやしょうと見やると、
「ここからあける」の文字が出てくるのだ。もう丁寧だ。
人間、何もなくとも開けられそうなところから開けるものだ。それを「ここからあける」と明記する。これを丁寧と言わずして何と言おう。
ただし、ここまでならまあ親切だねという範疇に収まらなくもない。そもそもフタを開ける場所をきちんと用意してくれていること自体が親切なのだ。それに親切を1つ足したまでという考え方もある。
安心してほしい。今のはボクシングでいうところのジャブである。恐ろしいのは次なのだ。
先の工程の①にて「フタを半分くらい開ける」と書いたが、実際どこまで開ければ十分なのだろうか。開けすぎた結果おいしく作れなかったりするんじゃないのか。そんな心配をカバーする「ここまであける」である。
いや、丁寧が過ぎるのではないか。そこまで指示されずとも、作り方に「半分くらい」とさえ書いてもらえればよいのではないか。この世界はここまでの丁寧が求められるようになってしまったのか。
落ち着いて他のカップラーメンも見てみたい。
こちらのカップラーメンには「ここまであける」と直接書かれていないものの、同じ場所に「B」と印字されている。側面の説明曰く「フタをBの線まで開く」そうだ。
これは丁寧かと言われると微妙なラインだ。フタをどこまで開けるかは結果的に示されているものの、パッケージの「B」単体ではよく分からない。ギリギリまでパッケージの見た目をデザイン側に寄せたい意思が感じられる。
しかし、このパッケージには別の丁寧さが存在する。
確かにカップラーメンの小袋は、気づかずに取り出さないままお湯を注いでしまうリスクが存在する。ただそれを警戒色でパッケージに表示する必要はあるのか。
しかも数だけではなく「お湯を注ぐ前に取り出す」とも書いてある。丁寧の権化なのだ。
もちろんこの世の全てのカップラーメンが実家の母親のようにあれこれ世話を焼いてくれるわけではない。世の中には開け方や小袋の説明のない硬派なカップラーメンも存在する。
しかし、これほどまでに工程が丁寧に記されている製品を私は見たことがない。令和の世においてカップラーメンといえば丁寧、丁寧といえばカップラーメンなのだ。
世の中の製品を母にする
ここまででこの記事を読んでいる8割の方々にはカップラーメンの説明の異質な丁寧さをご理解いただけたかと思う。だが残りの2割の方にもしっかりお届けしていきたい。
どのように説明すればこの異質さがより分かりやすくなるだろうか。例えばもし他の製品の説明がカップラーメンくらい丁寧であったらどのような見た目になるだろうか。
例えばペットボトルだ。
今日、誰しもペットボトルを前にすればキャップをひねって開けるだろう。それをわざわざこのように「ここからひねってあける」と書いてあったら奇妙な感覚に襲われないだろうか。
それが今カップラーメンで起きているのだ。目を覚ましてくれ、みんな。
他の製品でも試してみよう。例えばノートだ。
そもそも書き込むことを目的としてノートを開いているのに、そこに追いうちをかけるような「ここにかきこむ」の文字。これはもう丁寧を越えてありがた迷惑の域じゃないのか。
この異質さ、お分かりいただけているだろうか。お分かりいただけるまで続けていきます。お分かりいただけたらお分かりいただけたタイミングで言ってくださいね。
月ごとにめくるカレンダーも他人事ではない。そのままにしておいたが最後、次の月以降の暦が確認できないのだ。これは致命的な欠陥である。使用者に月ごとにめくる旨を伝える必要がある。
そう思っての「月が変わったらめくる」だ。「言われなくてもそりゃめくるだろう」と思いましたか。思ってください。それだけが望みなんです。
そろそろ分かっていただけたのではないだろうか。もしカップラーメンの異質さが世の中の全ての物に波及したら、何をやってもこんなにも説明されるようになってしまうのだ。その先駆けがカップラーメンなのだ。
ただ、この例はちょっとやりすぎた。「なめてとかす」は食べ方の説明なのでよいが、「かまずに」は余計なお世話である。もちろん噛んだっていい。それは人間に許された自由である。
ここまでいくつか「もしも」の世界を見てもらったところで、改めてカップラーメンのパッケージを見てもらいたい。
そう、カップラーメンの丁寧な説明は先に挙げたフタの開き方や小袋の解説にとどまらない。「フタのフチで手を切らないよう気をつける」「矢印の方向にゆっくりはがす」など、探せば探すほど懇切丁寧な説明が見つかるのだ。
お分かりいただけただろうか。お分かりいただけましたね。ようやくお分かりいただけたようで何よりです。カップラーメンの説明が丁寧すぎる、今日はこれを伝えにきました。
丁寧な説明の例は無限に作れる
はさみに「ここにはさんで切る」、定規に「ここをあててはかる」、体重計に「ここにのる」……。本文中ではくどくなりすぎるので省略したが、丁寧すぎる説明の例はいくらでも作れるのだ。
もし本当に何もかも説明が必要な世の中になってしまったら言ってください。私がシールを貼ってまわるので。