遊園地や博物館などの大型の施設は様々なオブジェやモニュメントで彩られている。主に「ディスプレイ造形」と呼ばれるあれらの創作物の多くは専門の業者さんによって作られ、設置されている。
では、その作り手である「造形業者」とは一体どんな仕事なのか。大阪府豊中市に拠点を置き、日本全国の仕事を幅広く手掛ける「宝島造形」のポピーさんという方に、たっぷりと話を聞いてみた。
宝島造形とはこんな会社
これから紹介するのは、ディスプレイ造形を手掛ける「宝島造形」という企業が具体的にどんな仕事をしているのか、そこに20年近く勤めて様々な現場に携わってきたポピーさんという方がどんな人でどんなことを考えながら生きてきたか、という話である。
最初に、ディスプレイ造形というものについて少し具体的にイメージしてもらうために例を挙げてみたいと思う。例えば、大阪府吹田市にある万博記念公園内の「太陽の塔」。1970年に開催された日本万国博覧会のシンボルとして岡本太郎によってデザインされ、今なお独特の姿で立ち続けているあの太陽の塔の内部。
太陽の塔の内部は万博の閉会後、長らく非公開となっていたのだが、大規模な修復を行い、2018年から再び一般公開されている。筆者も数回足を運び、そこに展開されている世界にいつも圧倒されてきた。
内部では、原初の生物から人類誕生までの進化の過程が夥しい数の造形物で表現されていてクラクラするのだが、そのオブジェ一つ一つが先述の「ディスプレイ造形」なのである。塔の内部に吊るされている巨大なマンモスや恐竜たちも、もちろん誰かの手によって作られたものなわけだ。
この太陽の塔内部の展示物の制作を一任されたのが今回お話を聞いた宝島造形のポピーさんである。宝島造形の公式サイトには会社紹介としてこんな文章が掲げられている。
“1988年より創業以来、国内外の博物館、美術館、各テーマに属する博覧会、水族館、遊園、公園、商業施設、設備などの展示美術全般における造創作とディスプレイ、各作家のオブジェ・モニュメント作品等、あらゆる造形制作にかかわってまいりました。”
まさにこの通り、我々がミュージアムや大型商業施設などで目にする様々な造形物を作ってきた企業なのである。
で、そういう造形物を作っているのがどんな会社なのか、そこで働いている人がどんな人なのかを知りたいというのが今回の主旨なわけである。
会社の内部を案内してもらった
まず、ポピーさんの案内で大阪府豊中市に社屋を構える宝島造形の作業現場を見せてもらった。
こちらがポピーさんである。ポピーさんは「ポピー中土井」という名義で活動するパフォーマーでもあるのだが、本稿では「ポピーさん」と呼ばせていただく。
社屋の敷地は広く、パソコンに向かって作業するような机の並ぶフロアもあれば、巨大な作業場もある。
フロアは作業のジャンルごとに分かれていて、塗装用のブースの脇にはとんでもない数の塗料や溶剤が並んでいたりする。
また、その隣のフロアでは別のスタッフの方がまったく別の造形物を作っており、いくつものスペースで同時に様々な作業が行われているという印象だった。
さらに本社社屋から少し離れた場所にも別の作業場があり、そこには最近、巨大なメッキ加工機が導入されたところだという。
数々の作業スペースを見せていただいただけですっかり圧倒されてしまった。勝手ながら取材に来るまで、なんとなくもう少し小さな工房で、少人数で作業をしている様子をイメージしていたのでなおさらだ。宝島造形には12~15名の正規スタッフがいて、複数のプロジェクトが絶えず同時に進行しているような状態なのだという。そこに時と場合によって外注の職人さんが加わることなどもあり、作業人数はタイミングによって変化するそうだ。
ポピーさんが宝島造形に入るまで
社内を案内してもらった後、会議室で改めてポピーさんに話を聞いていくことにした。
まず、宝島造形において今ポピーさんが担っている役割について簡単に説明したい。先ほど見てきたように、複数の作業現場で様々な制作物が作られている。
その全体を統括し、クライアントの求める納期に間に合うよう各工程の進捗を管理したり、外注する必要がある作業は他の企業へ依頼したり、各所とマメに打ち合わせをしてその内容を取りまとめたりというのがポピーさんの主な仕事だ。
ポピーさん自身、手を動かして造形物を作るのが大好きでこの業界に入ってきたのだが、今はどちらかというと取りまとめ役がメインになっているという。まずは、ポピーさんがどんな風にこの会社に入社することになったのか、そして今の役割をするに至ったのか、そこら辺を聞いてみることにした。
――取材前の勝手な自分のイメージでは、ポピーさんは黙々とオブジェを作っている方なのかなと思っていたのですが、たくさんのスタッフの作業を統括している立場なんですね
そうなんです。もともと手を動かすのが好きで入ったんですけど。気づいたらこうなっていて、もちろんこういうまとめ役も好きっちゃ好きなんで、いいんですけどね。
――宝島造形に入社したのは、自分の手で何かを作りたいという思いからだったんですか?
そうですね。僕は神戸のニュータウンみたいなところが地元やったんですけど、結構閉塞感があって、あんまり地元は好きちゃうかったというか、鬱屈しているような感じやって、それを救ってくれたのが高校で入った美術部やったんです。子どもの頃から物を作ったりするのは好きだったんですけど、美術部に入ったんが大きくて。
そこの顧問の先生がすごいよくて、美術、芸術に関する本がたくさん本棚に並んでて、雑誌も毎月買って置いてくれてて、みたいな。その先生のおかげで美術の世界を知ったんです。考え方の幅の広さを教えてくれたっていうか、美術の世界って色んな考えを許してくれるじゃないですか。自分の気持ちも受け入れてもらえるねんな、みたいな。
――美術によって世界が広がっていったわけですね。
それがなかったら、なんか悪いことしてたかもしれない(笑)ほんまによかったと思います。それで高校出て、なんせ美術に近い仕事がしたかったんで、グラフィックデザインの専門学校に行ったんです。それが2000年になるちょい前ぐらいで、当時やっとこさ一人一台パソコン持ってグラフィックやるようになった時代というか、スケルトンのiMacとか出て。
――なんとなくその頃の感じ、わかります。私も初めて自分でパソコンを買ったのが2000年とかだったような
そうなんですけど、でもパソコンやってるより、高校の美術部では彫刻寄りのことやってたりしたんで、なんか手作業したいなってなって。それで飛び込みで、ここに
――いきなりですか?
そうっすね。何件か他の造形屋に面接も行ったんですけど、ここにはいきなり電話して「雇ってくれ」みたいな(笑)
――それでどうなったんですか?
その時のここの会社って、人はめっちゃおったんすよ。おったんすけど、不況でめっちゃ仕事が無い時期で、バタバタはしてたけど、儲かっても無いみたいなんで、電話では断られたんすけど
――ああ、ダメだったんですね
まあ結局、大阪の造形屋さんは無理かと、東京に友達も多かったんで、東京の造形屋にでも行こうかなとか思って。
それで東京の友達の家を転々と居候しながらしばらく過ごしてて……なんかYahoo!BBの勧誘のバイトとかして(笑)結構すぐお金くれたんですよ。居候先の子がそのバイト紹介してくれて、その子も映画監督して自主制作映画撮ってて
――そういう芸術系を志す友達が多かったんですね
僕らはその頃、土方巽とか、寺山修司とか、そういうのにものすごく影響されて、アングラ好きみたいなやつらが集まってたんで。まあそれでパフォーマンスもやってたりしたんですけど
――どんなパフォーマンスですか?
舞踏ではないんですけど、パフォーマンスアートっていうジャンルですね。ハプニングとか、ああいうのに影響されて、基本なんか路上でやったりとか、ゲリラが結構得意やったんで。
昔はアメ村とかのイベントに出まくってたんですけど、今は僕らの名前を憶えている人もあんまりおらんと思います。でも、大黒堂ミロさんとかシモーヌ深雪さんとか、ゆうたらアングラのレジェンドなみたいな人たちが面白がって遊んでくれて楽しかったっすね。
「ミス大阪(という名の大阪のキャバレー)」貸し切ってやるSM系のイベントに呼ばれたりとか、ストリップ劇場を貸し切りでやったりとか。まあ今でもたまにイベントとか呼ばれればやってはいるんですけど
――そういう仲間と東京で過ごすっていう、楽しそうな日々があったわけですね
東京が楽しすぎて(笑)ちょっとバイトしちゃ遊んでるみたいな。学生時代にためたバイト代使いながら、結局無くなるまで遊んでしまった(笑)最後に残った貯金でニューヨーク行ったりして、それもその当時の最新のアートシーンを見ておきたくて、まあ、昼はギャラリーめぐって、夜はクラブで遊んで、みたいな。人から金借りたりしながら……
――今のところ、宝島造形に入社する気配が一切ないですね
そう、それで東京にいてる時に「なんかバイト雇ってへんすか」って聞いた知り合いがいたんですけど、その人がそれを憶えてて電話してきてくれて、「まだ暇してんの?暇してんなら来る?」みたいなんで、呼んでくれたのが宝島造形やったんです。その人はもう辞めちゃったんですけど、昔ここで働いてた人で。
それで面接受けるつもりで来たんすけど、面接も何もなく、そのまま急に作業させられて、そっからダラダラと今まで(笑)
――ははは、一気に入ることになったんですね。実技試験なんかも特になくですか?
なかったです。もう手が足らへんから、とにかくすぐやってくれって。猫の手も借りたいみたいなバタバタの状態だったんで
――その頃は一度ポピーさんが電話で断られた時と違って忙しいタイミングだったんですね?
人が一気に減っちゃった時だったんすよ。で、それで先輩が「誰か若いヤツおらんか」みたいな感じで僕を思い出してくれたっていう。その人いなかったらここにいてないです。東京の造形屋さんで働いてると思う
ポピーさんが宝島造形でリーダーシップを発揮するまで
――働き始めた頃はどうでしたか?
最初はようわからんかったっすね。やれって言われたことをやるみたいな。会社のこともそんなに知らんかったし、「あの梅田の木作ったんここやったんや」とか、後で知ったりして。梅田に昔、金色の木があったんすよ。よく「木の下でな」とか待ち合わせしたりしててた
僕、今は若い子に結構任せるようにしてるんです。やってみなわからんこといっぱいあるから。でも昔は教えてくれたりとか、任されるみたいなんはあんまなかったんですよ。
たまたま僕が結構出たがりやったから、色々表に出てわからんことを聞いていったからなんとかなったんですけど。作り手の人って、あんまり人と話したりしないっていうか、作ってたいだけみたいな人ばっかりやったんで
――職人気質というか
そうっすね。僕はたまたま少しコミュニケーション能力が高かったんで、仕事の段取りしたりとか、そういうのが多くなっていって
――なるほど、手作業だけじゃなく作業全体を俯瞰するような立場にだんだんなっていったと
高校の美術部でも部長やってたんで、面倒見がいい方なんかもしれないですね(笑)後輩を育てるのが楽しいみたいな。それで、そのうち会社的にキツいというか、空気がよくない時期があって、職人さん同士の派閥があったりして、色々あって、解散状態になったんですよ。
それが15年ぐらい前かな、15年も経ってないかもしれないですけど。僕と社長と社長の奥さんしかいないみたいな感じの時があったんですよ。
――え、みんないなくなってしまったんですか?
そうっすね。「もう、解散!」みたいになって。僕がその時たまたま一番若かったのもあるかもしれないですけど、社長に「お前、手伝うか?」って言われて、社長はその頃、ここを営業だけの会社にしようとしてたんですけど、僕はそれには断固反対で、やっぱり物作ってないと説得力ないぞと。
うちじゃないとできへんことも持っとかなあかんと。そういう会社にするために人を雇ったりっていうのは社長は僕に任せてくれたんで、今いてるスタッフの子とかは、僕の知り合いやから来てくれた人とか、僕がその辺で拾ってきた飲み友達とかダンサーとか、そんな人ばっかりですね(笑)
――そんな状況になっても会社を辞めようとか、別のところに行こうかなとか思ったりはしなかったんですか?
考えなくはなかったですけど、宝島という会社が好きやったんで、こんな面白い要素があるのにこのまま廃れていくの面白くないなって、できることあるんちゃうかって。せっかくやったらもっと面白くしたいと。ドヨーンとした感じやったんで、明るいヤツとか入れて雰囲気よくしようとか。
――大変だった時期もありましたか?全体の段取りも作業も自分でやらないといけないみたいな。
人が一番おらん時にきつかったんが、某有名な遊園地のアトラクションで、僕が担当になってて、担当になってというか、僕しかやるやつおらへんかった(笑)
その時ほんまに誰もおらんかったんで、制作は全部僕が見なあかんのですけど、その施設の全体の6割ぐらいの造形物をうちが受けることになったんです。
最初は全部やってくれって言われたんですけど、それは絶対無理ってゆうて別の会社に振らせてもらって、それでも6割はうちでやることになった。
――聞いているだけで怖い話です
っていうても、僕が自分で手で作るのでは間に合わへんから、僕が造形したのはほんの少しで、後は外注さんと打ち合わせして頼んでサンプル出してもらってみたいな管理ですよね。
それをまとめなあかん。現場で取り付けとかもやらなあかんし、現場見つつ、各社の工場に行ってできていってるものを見つつ、最終的に収めていかなあかんっていう。その間にお客さんと打ち合わせもして、「これをこの日からここに取り付けて」みたいな
――私の最も苦手なジャンルの仕事です
でも、やってることは普通の会社よりも普通っていうか。ちょっとややこしい工事をしてるみたいな感じですね。それを管理してるような
――あちこちに外注して、それが全部予測通りにならないこともあるわけですよね
もちろんありますね。外注先の工場が火事で燃えたりしたこともあったっすね。「このタイミングで火事!?」みたいな。それでも納期があったりするんで、とにかくなんとかしてくれって頼み込んだり
――10年ほど前がそれってことは、それをポピーさんは20代とかでやってるんですよね?
その時は20代やったっすね。2010年ぐらいか。それが一番キツかったですけど、やる人いないんで、やらなしゃーないみたいな。
「段取り」と「手作業」の間で
――ポピーさんは全体をまとめていく仕事もできるからすごいですけど、もともとは手を動かす方をやりたかったわけじゃないですか?
そうです。作ることがしたくて入ってるんでね。でもその頃はかなり忙しかったですけど、今は半分は常に手を動かすようにして、残り半分は事務作業っていうバランスにして、手を動かす時間は確保するようにしてますね。
仕事を受けた時に、段取りする立場にいるんで、「じゃあこれだけ自分で作ろかな」って選べるじゃないですか(笑)それは役得かなと
――「これは自分で」っていうのを選ぶ基準はあるんですか?
時間っすね。何件も仕事をまわさなあかんので、今も同時進行で何個も何個もやってるんで、それの支障にならん仕事を選んでます。合間にやっても滞りないやつ、だからまあ、あんまり選べてもないのかもしれないですけど(笑)
今は若い子らを育てたいんで、制作や段取りも教えながらサポートしたりもしていて、それができてきたらもう一歩踏み込んで新しいことをしようっていうところですね。
何年か前から考えてるんですけど、造形ゴリゴリのバーみたいな店を作って、そこをアンテナショップみたいにできへんかなって
――自分の理想の、究極のバーみたいな
今って不燃の材料で新しいのが色々出てきてるんで、そういう新材料を使って店を一軒作ったら建築の法律をクリアした上でこんなこともできるよ、って可能性を感じてもらえるみたいな。デザイナーの人とか連れてきたらその人の感覚が刺激されるような店。
そこから仕事にも派生していきそうなんで。まあ暇になったらと思いつつ、なかなか暇にならないんですけど(笑)
――宝島造形にはどんなところから仕事が来るんですか?どこかで制作物を見てとか
いや、基本的にはディスプレイ業界の大きな会社があって、そこからの仕事だけでも何軒も来るんで、あとはまあ古い付き合いの会社さんとか。ディスプレイ業界からの発注がほとんどで、外部からはないですね
――そういう大きな仕事がドーンとあって、スケジュールは年単位とかで決まってる感じなんですか?
いや、それが色々あるんすよ。文化系の施設やったら足掛け2年とかでやったりもするんですけど、商業系だと1ヶ月、2ヶ月みたいな短い期間でバーッとやらなあかんものもあって、大きいのだけやったら、来年のいつオープンやから、だいたいこんな感じやろなっていうのが組めるんですけど、合間に合間に急ぎでやってくれみたいなのがどんどん来るんで。
なんやかんやで忙しいですね。昔は暇すぎてみんなで会社を掃除してるだけの時期とかもあったんですけど(笑)
――今さらなんですが、仕事の依頼が来て納品するまでの流れっていうのはどんな感じなんでしょうか。
それが場合により過ぎてなんとも言えないんですよね。打ち合わせをして徐々に詰めていく場合と、お客さんがスケジュールを大きく決めている場合。「この2ヶ月で作らないとあかん」みたいなのがもう決まってたりもするんで
――そこから「この納期ならどことどこに作業を振る」みたいな判断をポピーさんがするわけですか
そうですね。そういうのを毎回計算して、どこの会社を使うとか、これはうちでやるとか。で、大きなプロジェクトを間に合うように計画していって、打ち合わせの日をこの辺で入れてとか、お客さんと交渉して、OKもらってみたいな。もうずっとやってるんで、その辺は脳ミソが勝手に判断できるんですよ
――この規模の制作物ならこの期間でできるっていうのがすぐわかると
ヤバそうなやつは見積もりの時点でわかるんで、「これだけかかるから、これぐらいの期間ちょうだいね」って最初にスケジュール組む時に言っておくんですよ。その時点で少し余裕をみたスケジュールにしてあるんで
――そうか、あらかじめそこに余裕をもたせておけば不測の事態があっても対応できると
もう不測の事態しかないんで(笑)それを加味しておかないと余裕なさ過ぎて精神が病んでいくんで。常に3つ4つは次の作戦を後ろに用意しておくような感じですね。
若い子に言ってるのが、いつも手を動かしておけと、手を動かしておけば最悪どこかの外注先でトラブルが起きても、「俺がやる!」っていうのができる。保険を一杯かけておいて、最後は「自分が徹夜でやったらなんとかなるわ」っていう保険も作っておくっていう(笑)
なので若い子には最初から最後まで一貫してやってもらうようにはしてます。そうしないと各工程の人の大変さもわからないんで
ポピーさんが嬉しかった仕事
――ポピーさんが手掛けたお仕事で特に気に入ってるものはありますか?
うーん。でも一番面白かったのは太陽の塔ですね。色々と大きい仕事はやらせてもらってますけど、あれが一番思い入れあるかな。毎日楽しかった。しんどい時もありましたけど。
――いいものを作ってるという手ごたえがあったというか
そうですね。大阪のランドマーク的なポジションなんで、それに携わらせてもらってるっていうのはやりがいありましたね。あの内部の一個一個、全部、細部にわたって知ってるのは僕だけちゃうかなと思いますね(笑)
――あれは、かつて展示されていたオブジェを復元していく作業だったんですか?
復元もありますし、資料が残ってないものは想像して作らなあかんとか、なおかつ自分で作るだけじゃなくて、せっかく面白い機会なんで、できるだけいっぱいの会社に関わってもらうようにしたんです。
現場にいっぱいの会社の職人さん入れて、思い出作りじゃないですけど、みんなが楽しんでもらえる仕方を目指して。後でオープンした時に「あれ、俺つけたんやで」とか子どもさんに言えたら思い出になるじゃないですか。
――完成した時はどうでしたか?
岡本太郎記念館館長の平野暁臣さんと一緒に、記念館にある岡本太郎の鐘を持ってきて、それを現代音楽家の方が演奏する儀式があって、それが感慨深かったっすね。
――あれはどれぐらいかけて作業をされたんでしょうか?
大きく動いてたのは1年ちょいって感じっすね。現場で取り付けてたのは2ヶ月とかでしたかね。
――制作物は一個一個ここで作ったり外注先で作ったりして、それを運んで取り付けていくわけですね
そうですね。あちこちの会社さんに顔出して、でもそれも苦ではなかったですね
ディスプレイ造形とは名前の出ない仕事である
――今回こうしてお話を聞いて宝島造形さんのお仕事を少し知ることができたんですけど、普通は会社の名前を知ることすらなかなかないですよね。オブジェ自体は目にしていても、どこで作っているかっていうのは
僕らの仕事って名前が表に出てこないんですよ。ディスプレイ業界では知られてるっていうだけで、一般には広がることはない、
――知られないというか、むしろ大っぴらに言えないものもあるんですか?
そうそう。ほぼ言えないんですよ(笑)まあ有名になりたいわけではないんで、いいんですけどね。
今は多く仕事を受けて、自分らから溢れた分はどんどん外注さんに出してっていう感じで、外注さんも仕事減ってるとこも多いからそこに振れたらいいなみたいなんもあるんで。
造形会社ができる仕事をもっと増やしていきたいというか、打ち合わせとかいっても「これも造形屋でできますよ」みたいな、業界を拡張させていきたいと思ってますね
――仕事が減るみたいな時代の変化もあるんですか?
なんちゅうんすかね、全体的に流行り廃りとかもあるんですよね。
例えば壁の材料とか、壁紙とかでも、昔やったらエイジングっていう塗装の仕事でやってたのが、パネルぱっぱって貼ったらそれだけでエイジングしたみたいになる材料とか、そういうのが出てきたりもするし、あえて手で作業するのが流行ったりとか。
今は不燃で造形できるFRPじゃない新材料が出てきてて、それをもっと流行らせられへんかなと思ってるんですけどね
――FRPっていうのは、造形の仕事ではよく聞く材料ですよね。
アメリカで開発され材料で、100年までいかないけどそれぐらい歴史のあるものですね。イームズって椅子あるじゃないですか。イームズチェアの一番初期のはFRPなんですよ。量産までにいたってない頃は。
そんなんに使ってたあり、それにうちの会社の先代がここをやる前にいてた会社で扱い出した。日本にFRPが輸入され出して、マネキン業界とかで使われ出して、その流れで造形屋っていうのがポツポツっとできてきた、っていう流れなんです
――そう聞くといよいよ新しい時代が始まるタイミングなのかもしれないですね
材料もそうですし、若い子らにどんどん育って欲しいですね。僕がやってきたことプラス、僕ができないことみたいな感じで、まあ役割分担をしつつ、誰かがまずそうやったらフォローしたりっていうのが自然にできる会社になったらいいなと、それを目指している。
とにかく楽になりたい(笑)僕ずっと子どもの頃から水木しげるさんが好きで、その水木さんが「怠け者になりなさい」って言ってるんで、早く怠けたいんですよ。あ、水木しげる記念館の入り口の下駄は、僕つくりましたよ。あれ嬉しかったな
あ、こないだこれをリメイクしたんですよ。
「JAMSTEC(海洋研究開発機構)」っていう施設に展示されていたのを引き取ってきて、今の形にして塗装し直すみたいな作業で、そしたらこれが昔うちが作ったものだったという。昔のなんで、ちょっとボコボコしたりしてて(笑)それをかっこよく直して。なんかめぐりめぐって、不思議でしたね
――それにしてもこうやって話を伺っていても過去のアルバムを見ていても作るものって一つ一つ全然違いますね。
そうなんですよ。毎回「どうやって作ろうかな」って、そこから考えなあかん。デザインからして無理難題だったりして、作れるところがないからうちにくるみたいな。
そもそもムズいっていう(笑)でもまあ、なんとかせなしゃあない。それをギリギリなんとかしてこれたんで、今、うちがあるっていう感じっすね
――今日は貴重なお話をありがとうございました!
その後、ポピーさんがおすすめしてくれた近所の定食屋でお昼ご飯を食べ、やはりポピーさんのおすすめだという「五色」という巨大銭湯まで車で送っていただいた。
まさか取材のゴールに車で銭湯へ送ってもらうことになるとは思わなかった。
取材の後でポピーさんが「錦糸町のバーで30万ほどぼったくられて、悔しくてもう一回行ったら15万ぼったくられたんですけど……」と話していたのを思い出しながら、露天風呂にゆっくりと浸かった帰り道、久々に太陽の塔の内部が見たくてたまらなくなってきた私だった。
気さくなポピーさんがざっくばらんに語ってくれたおかげでディスプレイ造形というお仕事の世界を垣間見ることができた。
黙々とした手仕事というイメージがくつがえされ、もちろんその一面もあるけど、巨大なビルを建てていくように、各パートを取りまとめて完成へと導いていく側面もあることがわかった。
今度ポピーさんのおすすめの居酒屋で飲む約束をしたので、その時にはさらに深い裏話を聞いてみたいと思う。