自民党総裁選や存在感のない野党を受けての憂鬱:「シン攘夷」のために

アゴラ 言論プラットフォーム

本エッセイ執筆時のわずか数時間前に、自民党の第27代総裁として岸田文雄氏が選出された。ほどなく、第100代の内閣総理大臣に選出されることはほぼ確実である。

岸田新総裁
出典:岸田氏HP

こう書くと何か劇的な瞬間に立ち会っているかのような錯覚に陥るが、結論から書けば、実は何の感興も湧いてこないというのが残念ながら偽らざる気持ちだ。読者諸賢は如何であろうか。

3日前の27日(月)に公開されたJB Pressの拙稿に書いたとおりだが、ほぼ予想通りの展開で決選投票にもつれこみ、また読み通りに結果として岸田氏が選出されたから、という「予定調和」だけが原因ではない。

衆院選を見据え総裁選の熱狂演出する菅・安倍両氏の戦略眼の凄み 大局を見て決断する力、「新総裁」には備わっているのか | JBpress (ジェイビープレス)
自民党の総裁選がいよいよ佳境に入ってきた。29日には国会議員による投票と開票作業が行われ、その日のうちに新総裁が決定する。その後、政界は衆院選に突入する。ただ、自民党総裁選の盛り上が(1/6)

改めて、「時代の要請」を正しく想像し、そして、その「時代の要請」に応えるだけのビジョン・政策の方向性を打ち出す候補者不足(与野党を問わず日本全体として)を痛感するからである。

こう書くと、怪訝な表情をする方が少なくないと思う。確かに、今回、自民党は良くやった。幅広く、様々な政策をぶつけ合い、やはり自民党には人材がいる、という気持ちを人々に持たせた。

絶妙なタイミングで菅氏が退陣(総裁選不出馬)を決めて、激しく候補が乱立する総裁選をアレンジし、また、自民党支持層の3~4割を占めるとされる保守派の動きを出すべく、安倍氏は当初は泡沫候補扱いされていた高市早苗氏を推して全面バックアップをした。結果としては「さすがの幅広さよ」と思わせるだけの候補者を自民党は右から左まで4人揃えて、連日討論会を催し、結果、総裁選は盛り上がった。

コロナ対策、経済政策、エネルギー政策、年金のあり方等々、様々な政策について論戦が交わされ、候補者たちは、自説・政策を開陳しあった。「時代の要請」を踏まえ、ビジョン・具体策を出し合ったように見える。

このまま行けば、国民的人気の高い河野氏が選出された場合ほどではないにせよ、恐らく11月の来るべき衆院選でも、岸田自民党は手堅く勝利を収めるであろう。意中の候補者が総裁にならなかったとしても、「みんなで選んだ」感に浸って満足している自民党支持者は、上述の保守派をはじめ、かなり選挙に足を運ぶのではないか。

しかし、改めて問おう。現在、本当のところ、「時代の要請」は国民に正しく想像・共有されているであろうか。そして、その「時代の要請」に応えるだけのビジョン・政策の方向性は打ち出されているであろうか。そうしたイメージをしっかり持たせるのが政治の一つの役割だとすると、現状とても十分とは思えない。

ここで、まずは「時代の要請」ということについて考えてみたい。

結論から書けば、日本には今、「大改革」が求められていると考える。これはもう、必要なものは必要としか言いようがない、というのが正直なところであるが、少し客観性を持たせるため、約10年周期、約80年周期の2面で考えてみたい。

まず、10年周期の方だが、実はここ40年ほどを振り返るだけでも、日本では、大きな経済的ショック→政治の大変動の繰り返しが約10年単位で起こっていることが分かる。

1980年代の終わりから90年代初めにかけては、バブル景気がはじけ、日本新党が大躍進をして熊本県知事がアッという間に総理大臣になるという事態が発生した。

90年代終わりから2000年代初めにかけては、山一證券・拓銀・長銀などが次々につぶれてメガバンクの大再編なされた。つまり、いわゆる金融危機が発生し、その直後に「自民党をぶっ壊す」と叫んだ泡沫候補のはずの小泉純一郎氏が総理大臣になって長期政権となった。

2000年代の終わりには、リーマンショックが発生して、選挙での政権交代が起こった。民主党政権の誕生である。

約10年単位で発生する危機に際して、①日本新党と細川政権、②小泉政権、③民主党の各政権のいずれも威勢良く改革を唱えた。特に小泉政権は長期政権化するなどして、一定程度国益を達成したと言って良い。しかし、いずれも何ら本質的な改革は進められなかった、時代の要請に即した大改革は出来なかった、ということは論を待たない。物騒な表現を使えば、まだまだ「出血」が足りない。

そして、2010年代を過ぎて2020年代に入ったところでコロナショックが発生した。本来であれば、そろそろ、少なくとも、かつての民主党政権誕生のような「選挙による政権交代」程度の政治の大変動は起こってもいいタイミングだ。しかし現状、その気配はない。

コロナ下の現在、結果としての感染者や重症者、死者は、諸外国に比べて相対的に少なく済んでいる。が、これは、たまたまの僥倖や国民一人一人のモラルの高さによるものであり、コロナという脅威を前に、わが国の危機管理システムは機能不全を露呈したと言っても過言ではない。人口当たりベッド数は相対的に非常に多いにも関わらず、諸外国に比べてかなり少ない患者数でも、わが国では病床ひっ迫から来る医療崩壊の危機に瀕した。

本件一つとっても、例えば医療制度の大改革は本来急務であるはずだ。しかし、繰り返しになるが、その機運はない。

しかも現在は、上記のとおり、自民党が菅氏・安倍氏の「連携プレー」で、とてもうまく立ち回り、結果として岸田政権が誕生したばかりである。先述のとおり、衆院議員選挙でも岸田政権はきっと勝利をおさめ、しばしは安泰であろう。危機は覆い隠されてしまっている。恐らく、時代が求めるような大改革することは当面ない。

ではその「大改革」とは何かといえば、私見では、実は80年周期で考えられる過去に発生している。すなわち、直近の80年前で考えると、いわゆる1940年体制や戦後の諸改革に代表される時期の改革となる。そして、さらにその80年前となると、つまりは幕末維新期の大改革だ。

版籍奉還から廃藩置県を行い、米から地租に税を変え(地租改正)、徴兵をして武士階級をなくすべく秩禄処分や廃刀令を発し、行政組織の大改革を行い、学制を整えて働き手だったはずの子女を有料で学校に入れさせ、、、と、西南戦争が最大だが、各種内乱頻発で、台湾出兵や江華島事件などの外憂も多々発生していた時期に、文字通り血のにじむ改革を命がけで達成し、日本は近代国家となった。各種の産業振興策も見逃せない。その間、わずか10年ほどだ。

こうした大改革の実現こそが、本来「時代の要請」であるはずだと思う。消費税を少し上げるとか、郵政を民営化するとか、といった程度の改革ではない。しかし、再度繰り返すが、現在、大改革に向けた機運は感じられない。

最後に、こうした「時代の要請」のため、すなわち、大改革を進めるために、どのような「ビジョンや政策の方向性」が必要かについて考えてみたい。

これも結論から書こう。「シン攘夷(新攘夷/真攘夷)」のため、①リーダー(始動者)を多数輩出し、②各地を強化して、③世界に伍せるメガベンチャーを生み出すというビジョン、更には具体的な政策が必要だ。

言うまでもないが、幕末の大改革は、「攘夷」という物凄いエネルギーを元に行われた。現代から見れば「狂気の沙汰」としか言いようがないが、夷人(外国人)斬って果てても良いという志士がそれなりに存在していた。

こうした個人個人が、相対的に数多く集まったいわゆる「雄藩」では、これまた「狂気の沙汰」だが、当時の大先進国の欧米列強と一藩にて戦争(攘夷)を行った。四か国艦隊と戦った長州藩やイギリスと一戦交えた薩摩(薩英戦争)などである。

今回のコロナ下で、「たとえダメでも自ら欧米の製薬会社と交渉する」という気迫を見せた自治体を寡聞にして一つも知らないが(「ワクチンが足りない」と日本国政府を非難する声は多数あったが)、幕末当時のこうした個人や地域の気迫は、思わぬ力を生むことになる。

坂本龍馬の近代船・海軍への想いなどが典型だが、各種紛争などを横目にみつつ、真の攘夷のためには、単純な「夷人斬り」ではなく、夷人たちの有する文明の利器を獲得しなければならないという意識が芽生えたわけである。実際に、優れた藩は、船や新式の大砲などの「文明の利器」を手に入れて行くことになる。

現代は、「シン攘夷」が必要な時代である。つまり、かつてのように領土の占領(植民地・租借地)や露骨な不平等条約の押し付けみたいな分かりやすい危機が現在あるわけではないが、実は、新たな産業の米とも言うべき「データ」を根こそぎ取られたり、お化粧がほどこされた”不平等条約”を押し付けられたりする危機に満ちている。

そうした危機を前に、それはそれで大事なことではあるが、ちょっと外為法を改正して(≒「夷人」を多少斬って)溜飲を下げたところで仕方ない。幕末当時の「海軍」に喩えれば、現在でいえばさしずめ、国際社会で競争力を持つ「メガベンチャー」を誕生させる必要がある。

〇〇機構といった政府系ファンドを組成することによる間接的な金融支援に止まらず、政府がより積極的に「人」も出すなど、ベンチャー育成に関与することも考えるべきというのが私見だが、いずれにせよ、そのベースとして、強い個人、強い各地を作るしかないわけで、そうしたビジョン・政策の方向性を指し示すことが大事だ。

時代の要請を正しく認識して、大改革を希求し、そのためのビジョンや改革の方向性を指し示すこと。もちろん、実現力も併せ持つこと。

こうした大きなストーリーを提示し、議論することが、政治はもちろん、国民的に各所で求められている気がしてならない。私の憂鬱の原因はおそらくこのあたりにある。