4年前、長崎県佐世保市で一人の歴史研究家によって「女性哀史 佐世保遊里考」(芸文堂)が発行された。
タイトルのとおり、佐世保にかつて存在した遊郭の歴史がまとめられた本だ。遊郭と聞いても、るろうに剣心の志々雄真実がはべらせていた女性だとか安野モヨコのさくらんとか遠い世界のように感じていたわたしは「こんな身近にあったとは」とずがんときた。
というかそもそもなぜそんなデリケートなテーマの本が生まれたのか?これは著者の方に聞かねばならんだろう。
- 当時82歳だった著者の350ページの自費出版本400冊が完売
- 軍港発展の裏側。女性たちの哀史をまとめた本はなぜ生まれたか
- みんな普通の女の子だった
- 元遊郭だったスナックで意気投合。「連載してみませんか」
- 100回分の連載をとりあえずぶっこんだら、2倍の厚さになりました
- 反響も嬉しいし、書きたいことはまだあるんだよ
- 遊郭跡地を巡ってみた
- 交番らへんに入口の門柱があった
- 丸窓、格子窓、松の意匠
- いきいきと呼吸し続けるところ、ひっそりと息をひそめるところ
- 「松竹荘」マンションの片隅にひっそりと
- 料亭、スナックもありました
- 野口雨情(のぐち うじょう)が歌に綴った佐世保の遊郭
- 知られざる側面を知ることは、世界がより立体化する
- 郷土史の1ページに「提督さん」の文字よおどれ
当時82歳だった著者の350ページの自費出版本400冊が完売
明治22年。人口3,700人あまりだった一寒村に鎮守府(海軍の拠点)が設置され、広島の呉や神奈川の横須賀と同じく軍港としてめきめきと発展してきた佐世保。新天地求めて近隣から多くの人々がすみ着き、5年後には人口が2倍近くまで膨れ上がった。
そんなゴールドラッシュさながらな発展の裏には、遊郭を舞台に生計を立ててきた女性たちがいた。その事実は小さな記録として断片的にぽつぽつと残されてはいるもののスポットを当てられることはなかったわけだが、そんな記録たちをひとつひとつ丁寧にすくいあげ形にし、最終的に1つの本にまとめあげたのが山口日都志(ひとし)さんだ。総350ページ、400冊を発行。とてもデリケートな内容にも関わらずあれよあれよと完売した。
佐世保では、ご高齢の方による歴史書や自伝の自費出版はそんなに珍しいことではないのだけど(たぶん)、異例ともいえるポジティブな反響だった。「佐世保文学特別賞」を受賞するなど、ちょっとした話題になったのだ。
佐世保のまちの発展にともなう遊郭・花街の設置、拡大や戦争による影響。また戦後の変化など十四章にわたる。中でも興味深いのは、芸妓(げいぎ)や娼妓(しょうぎ)の数、彼女たちの年齢や給与額、流行した性病や取締まり規則、さらには遊客台帳といったデータの数々だ。
いったいどれほどの膨大な資料を集めればこんなになるのだろう。
また、本書の見どころはこれだけではなく、随所に散りばめられた、著者山口さんの、女性たちに向けられたやさしさだ。
なぜ、この本が誕生したのか。その経緯を伺った。
軍港発展の裏側。女性たちの哀史をまとめた本はなぜ生まれたか
山口さんは現在84歳。昭和12年、長崎県北松浦郡鹿町村(現:佐世保市鹿町町)に生まれた。
「私のおやじとおふくろは、学校の教員をしよったとですよ。とはいえ、(父親が昇進したため)おふくろは40過ぎて退職した。当時は、旦那が学校の校長か教頭になったら、奥さんが働いてても辞めなきゃいかん。そんな不文律があった。おかしな話よね。んで子どもも僕含めていっぱいいたから、それでも食わせてやらなきゃいかんかった。かなり、家計のやりくりには苦労してましたよ。教員だったんで(社会的信頼を得て)借金はできましたがね。大学はおふくろの年金で行かせてもらいましたよ。そんときは40歳でももらえてたから・・」
山口さんは、幼少のころから母親をはじめ、女性たちが懸命に生きる姿を目の当たりにしてきたという。
「私の身の回りには、おふくろ、おばあちゃん。叔母さん・・うちのおやじの妹ね、戦争で旦那を亡くした。とにかく一緒に暮らした女性たちが多かったの。だから、私は彼女たちを尊敬していたし、身近だった。女性に対する壁がなかった。大事にしなきゃなあって、いつも思ってた。」
そんな生活の中で、「なぜ女性だけが苦労する?」という思いを抱くこともたびたびあったそうだ。
みんな普通の女の子だった
「私が小学三年生の時に戦争が終わりました。ひどく、お腹がすいていたのを覚えています。昭和20年かな。そこからキャバレー、ダンスホール、ビアガーデン、レストランとか増えてきてね。4~5年後には朝鮮戦争が始まったでしょう。そこから“パンパンさん”が一気に増えてね。」
――米兵さんを相手にしていた女性たちですね。
「うん、そう。私が育った炭鉱町では、みんな貧乏で仲良しだったんですよ。友達のお姉さんがパンパンさんになってお金を稼ぐことが多くてね。たまに長屋に帰ってきては、私らが絶対口にできないようなチョコレート、チューインガム、キャンディ・・とにかく甘いもの。たくさんくれる。とても優しかったですよ。」
「学生のころ、数か月の間だけなんだけど、代筆業のアルバイトをしたことがありました。米兵さんとパンパンさんの間に入って、お手紙を交わすお手伝いをするんですね、翻訳です。「Chihiro Yamamoto」みたいに、名前から書いてあげないといけない。(女の子たちは)私と変わらない年齢の子が多かったですよ。中身はね、『あんたのことが好きよ』とか『夜も眠れないほど心配しています、無事に(アメリカに)帰ってね。』とか。何度も依頼を受けていると、顔を覚えてくれたりして仲良くなることが多かったのだけどね。変わらないんですよ。」
「話してみれば、みんな、普通の女の子だった。なんら、変わらないんですよ。」
元遊郭だったスナックで意気投合。「連載してみませんか」
中学校の社会科教諭として40年間教壇に立つ傍ら、佐世保市郷土史研究所の研究員として、近・現代史の研究を続けてきた山口さん。
――なぜ近・現代史をテーマに選ばれたんでしょう?
「まず、幼少期を炭鉱町で過ごした影響が大きいですね。あと、人があまり手を付けていない分野だったから。歴史好きのあいだでは、戦国時代や幕末あたりが人気でしょう。あとは、佐世保の成り立ちが面白かったから。そもそも人が集まるための交通や、道路整備、住居や上下水道の設備とか伝染病対策とか。どうやって現代に繋がっているのかをね。知れば知るほど楽しいんですよ。」
定年退職後、佐世保市制百周年記念事業の一環としてスタートした佐世保市史の編さんや執筆に参加することに。市立図書館が所蔵する膨大な資料に目を通し、時代や系統別に整理し年表化していく中で、娼妓や芸者、女給ら女性たちの姿について書かれたものがほとんどないことに気がついた。
「こりゃあ、私がやらないと。と、火がつきました」
時には連日徹夜することも珍しくなかった市史編さん作業と並行しつつ、女性たちの足跡を追い資料を収集し続けるという骨の折れる日々が続く。無事に市史を発行し、平成14年に編さん室を退職。その後、佐世保の古い郷土誌「虹」の編集長と行きつけのスナックで意気投合したことがきっかけで、翌年末連載に至った。その連載のタイトルが「女性哀史 佐世保遊里考」だった。
「そのスナックのママのお父さんは遊郭の元経営者でね。昔の話をたくさん聞かせてもらいました。店は・・たぶん今はもうないんじゃないかな。」
「『佐世保遊里考』のタイトルは私が考えたんだけど、“女性哀史”のフレーズは編集長のアイディアだった。その方は女性で、いたく関心を示してくれて。」
「時間が足りなかった。連載期間は8年ほどだったけど、全然。連載だから、次、また次、という感じでね。集めた資料をまとめただけで、咀嚼する時間が足りなかったように思う。けど、郷土研究に終わりはないから。けじめをつけようと思って、出版に踏み切った。決めたのは平成27年かな。サブタイトルの『ー遊女・芸者・娼妓・女給・夜の女ー 懸命に生きた女たち』は、そのときに私がつけました。」
100回分の連載をとりあえずぶっこんだら、2倍の厚さになりました
出版までの二年間はとにかく大変だった、と山口さんは振り返る。出版のノウハウがゼロの状態からスタート。発行を手掛けた出版社・芸文堂の編集長と二人三脚で歩を進めた。
「校正ってもんは、大変なもんだね。もう二度とやりたくないよ。文章の誤字脱字よりも、膨大な資料との照合がね。」と苦笑い。かれこれ7~8回は行ったらしい。100回分の連載だったが、情報が重複する部分も多かったそうだ。とりあえずガバッとまとめてみると、総ページ数が700ページを超えてめまいがしたそうだ。
反響も嬉しいし、書きたいことはまだあるんだよ
――佐世保の郷土誌「虹」での連載中、または初の著書としての出版後の反響はいかがでしたか。
「ほとんど良かった。これだけ関心を持ってもらえると嬉しいですね。非難されるとか、そういった反響は不思議となかった。増刷のお話は各方面からたくさんいただいてて嬉しいんだけど、なんせお金もないし、この通り(車いすをトントン叩いて)体力もないから難しい。もう鉛筆だって持てないんですよ。そこがくやしい」と、山口さんはうなだれる。
「でも、書きたいことは他にもまだたくさんある。今考えてるのは、私の生まれの北松鹿町(ほくしょうしかまち)…炭鉱町の生活について書きたいんですけどね。」
音声入力で頑張ってみるのはいかがでしょうと、わたしなりにあれこれ考えてみたけれど、「コンピューターは、私、ぜんぜんダメなんですよ」と笑われてしまった。
いつか遊郭跡地を巡ってみたいというお話をすると、「勝富町はいまもしっかりと跡が残っているよ。キワモノ扱いや、興味本位だけじゃなく、きちんと向き合って、知ることが大事だ。」とコメント。心得ました。
遊郭跡地を巡ってみた
今回、一部の昭和レトロファンも全国から訪れている佐世保市勝富町の遊郭跡地を巡ることにした。とはいえ、浅学なわたしが一人で歩いたところで心もとない。そこで、遊郭跡地をはじめ、佐世保の近代史に興味がある二人の男性に同行を願い出た。
Death worker(デス ワーカー)さん(以下:Dw)
新井さん(以下:新井)
このまち歩き、当初は新型コロナ対策を取ったうえで三人で現地を練り歩きたかったのだが、別件でワタワタしているうちに佐世保市の感染者数が激増してしまいリモートに切り替えることにした。zoomもストリートビューも不慣れなわたしの心が「後手後手」と泣き声をあげていた。
まち歩きとはいっても、建物ひとつひとつにコメントするのではなく、ビューイングしながら自由に発言していただくというスタイルを取ることに。あくまで令和版として、ゆるくご覧いただければ幸いである。
参考にしたのは以下のマップだ。
結論から言うと、勝富町のまち並みはほとんどが駐車場や一軒家、マンションになってしまっている。しかしそんな現代風景のなかでも、わずかながらしっかりと花街の跡が残っているのだ(数年前まではまだまだたくさんの建築物が残っていたので、ぜひ、ネットの海にあふれている先人たちのブログなどを見てみてください…ホントに空気感がすごいですから)。
交番らへんに入口の門柱があった
山本:この辺からスタートですね。
Dw:もうちょっと手前あたりかな?門柱があったんですよ。
山本:いまだと交番があるあたりからでしょうかね。では、ここからまっすぐ進んでみましょう。
新井:メインストリートですね。
Dw:こちらのお食事処ですが、綺麗にされてますけど、よく見ると看板建築の意匠が残ってます。特に建物の表側の、上の方なんかがね。
山本:おお、さっそく!見落としてました・・。地図でいえば、加登屋さんあたりでしょうか。そういえば、もう少し進んだあたりに観光案内板があったんですよ。
山本:遊郭のあとに作られた最新(?)のものなんでしょうけど。
Dw:これはまさに、遊郭街のマップという感じですね。
新井:現在はほとんど営業していないんでしょうけど、遊郭がなくなったあとこうして生きながらえるところもあったんですね。
Dw:案内板の両側の建物なんですが、角に面した部分がそれっぽいんですよ。
新井:うんうん、斜めにも面している感じですね。
山本:あと、一階部分も装飾があったり、大きく開けていたり。三階建ての建物とかは元遊郭の特徴だと山口先生もおっしゃってましたね。
丸窓、格子窓、松の意匠
Dw:こちらはまさにそうですね。
新井:格子窓がくっきり!こんなに綺麗に残っているのも珍しいですね。
山本:先日歩いていたとき、ぜひ中を拝見させてほしかったんですけど。ちょうど仕入れ中でお忙しそうだったので断念しました。野菜とかの卸売りをされてるみたいですね。
他にも、丸窓や松など、ちらほらと意匠が残っている。
いきいきと呼吸し続けるところ、ひっそりと息をひそめるところ
もとは「広喜屋(ひろきや)」という名前だった元遊郭の建物だ。現在はカフェとして利用されている。
Dw:以前、すぐそばに「新開荘(しんかいそう)」という名前の遊郭があったんですよ。建物がとても立派だったんですが。6~7年前でしょうか、綺麗に取り壊されまして。
山本:へぇ~!そんな最近まであったんですか!?
新井:ネットとかにも結構画像があがってたりしますよ。特に入口の、洋風の装飾がカッコ良かったんですよね!建物の雰囲気も重厚で。
山本:こんなに近くに住んでいるのに実物を見れぬまま終わるなんて…一体何をやっていたのでしょうわたしは…。
新井:当時の建物がどんどんなくなっていくのは、仕方がないんでしょうけどもったいないですよね。こうした歴史の“裏側”的な位置付けのものは、近代の遺産ということもあって、行政の補助とかも働きにくい分野でしょうし。
Dw:特に遊郭というジャンルになると、人によって価値観がまったく違うので難しいですね。広喜屋さん跡のカフェは、とても良い形で活用されてると思います。僕、ここでイベントやりたいなあってずっと思ってるんですよ。
山本:ダークツーリズム的なやつですね…!コロナが落ち着いたら、ぜひとも!!
Dw:あ、向かい側にあるここも元遊郭ではないか、と人づてに聞きました。破風※1のデザインが素晴らしいですよね。
※1 切妻屋根(二枚の板をへの字にあわせたような屋根)の、「Λ」の形になっている板。
(「三省堂国語辞典 第七版」より引用)
山本:屋根部分なんかは採光窓までありますね。右側のビューティーサロンとは同じ建物なんですね。でかい。
新井:この一画はまさしく。当時の光景が目に浮かびますね。
「松竹荘」マンションの片隅にひっそりと
大きなマンションの隣に、時代ごとそのまま切り取ったかのようなひときわ異質な空気を放つのが「松竹荘」だ。
料亭、スナックもありました
野口雨情(のぐち うじょう)が歌に綴った佐世保の遊郭
Dw:佐世保の遊郭にまつわるエピソードは色々あるんですけど、その中の1つ、作詞家で詩人の野口雨情さんについて。
野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 – 1945年(昭和20年)1月27日)は、詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。
Dw:古本屋でたまたま手に取った『長崎県案内』という本がありまして。昭和7年のものなんですけど、その中に『佐世保メロディー』という唄が書いてあったんですよ。野口雨情さんの作詞なんですが、見事に佐世保の遊郭のことを唄ってあるんです。
新井・山本:へぇぇ~っ!!!
Dw:(レコードの)発売が1931年なので、満州事変のあたりです。当時、佐世保の遊郭はとても有名だったんでしょうね。今とは感覚が全然違うんでしょうけど。
知られざる側面を知ることは、世界がより立体化する
今回「女性哀史 佐世保遊里考」で、佐世保の知られざる側面を知るきっかけになった。普段なら決してスポットが当たることのないテーマに関心を持ち続ける新井さんとDeath workerさんに、その理由を聞いてみた。
新井:僕は、地元は佐世保ではないんですけど。かといって自分の地元のこと知ってるかというとそうでもなくて。いま住んでいる場所(が佐世保)なので、イチから勉強してやるぞって意気込みですよね。勝富町に興味を抱いたのは、まぁ好きな喫茶店があったからというのがきっかけですけど、歩いたときに感じた薄暗さ…と表現が合っているのかわかりませんが。異世界に近い不思議さには魅力を感じましたね。懐かしいというか。ここで女性たちが性や芸を売って、男性にロマンや非日常感を提供していたと思うと、この街にも疑似恋愛が織りなす表情があったんだなって。
山本:佐世保ならではな部分って感じられます?
Dw:う~ん。佐世保の遊郭跡地で残っているものは戦後に建てられたものがほとんどですからね。戦前に建てられたものとは趣は違いますよね。
新井:町中に潜んでて、うっかり普通に通れちゃうというのがミソですよね。「じゃあ吉原行きますか」ってなってもねぇ。少なくとも生活の中にはないでしょうし。
山本:あぁ~、確かに、そこの違いはありますね。Death workerさんはいかがですか?
Dw:戦後の魅力を掘り起こしていく中のひとつとして遊郭がありますね。はじめは珍スポット的な視点で見ていたんですけど、歴史的な意味があるんだなと思えてきました。今の生活に地続きで繋がっているんだなと。
新井:僕はよそ者ですけど、違和感がそのまま魅力に繋がっているなと感じることはありますよ。
Dw:知ってもらうだけでも意味がありますよね。特に若い世代の方々には。
山本:それも物事の厚みって増していきますもんね。地元の、自分をとりまく世界がさらにぼこんと立体化したような気がします。お二方、今回は本当に有難うございました!
郷土史の1ページに「提督さん」の文字よおどれ
2年前ほどだろうか。町おこしの一環で「艦これ」とのコラボイベントが大々的に開催され大盛況だった。「提督さんいらっしゃい!」と手作りの横断幕が商店街の店先に掲げられたその光景は、久しぶりに地元が活気づいたとても嬉しいものだった。
担い手が徐々に減りつつあるという郷土史編纂。もしわたしがそれに関わるようなことがあれば、平成後期から令和の1ページには「提督さん」の文字をこっそりおどらせてみたい。