Facebookから社名を「Meta」に変更し、メタバースという言葉が世間に浸透することとなった2020年以前から、世界には「VR SNS」と呼ばれる、まるで目の前に人がいるかのようにコミュニケーションを取ったり、一緒に遊んだり、イベントに参加したりできるような、文化や社会が形成されている空間はあった。特に「RecRoom」や「VRChat」などは、世界中のユーザーが盛んに交流や創作をする仮想空間として提供されている。
筆者の齊藤も、その頃からメタバースで学校を2020年に創設したり(私立VRC学園)、VR美術館を創作するなど、盛んに活動していたメタバースの住人の一人である。メタバースが生活の一部になっている人は、アバターを自分で作ったり、メタバースそのものを自分で構築して、そこで友人と交流したり、イベントを開催しているような、創造がモチベーションになっているように感じる。
「アバター文化」が人を縛りから解放する
現状、メタバースに入るためにはアバターを使うのが一般的となっている。以下の画像のように、メタバース空間では国籍や性別、年齢など関係なく、さまざまな人々がアバターを通して交流を重ねている。
アバターは手軽に切り替えることが可能であり、自分とは性別の異るのアバターをはじめ、動物やロボットなど、自分の好みに合わせて使いたいアバターを選ぶことができる。アバターを使っている人のなかでは、現実世界の自分とは異なる性格や人格になるような人も多く、これは「1人1つ以上のアイデンティティを持つ」という感覚に近い。
アバターとはもともとインドの言葉でヒンドゥー教に出てくる言葉。アバターの語源はインドのヒンドゥー教にあり、神の化身を意味するサンスクリット語「アヴァターラ」から派生したものとされている。例えばヒンドゥー教の神、ヴィシュヌは10ものアヴァターラを持っているとも言われている。
現実世界とメタバースでのアバターのアイデンティティは、違うものとして考えられている。人間という生き物は複層的で、そのときどきの出会いによって異なる自分が出くるものだ。これは現実世界でも変わらない。アバターは、人間の中にある性質の一部分を外に出し、具現化したものと言っていいだろう。
メタバースでは自分の代理の姿となるアバターを使い、環境まで自分でコントロールしながらコミュニケーションするので、さまざまな不安や知覚異常をかなりの程度コントロールすることができる。そしてアバターの自分をその交流の場に置くことで、臨場感を保ちながら安全に他者と交流することができる。
アバターによって普段とは異なるアイデンティティの自分が表面化するという感覚は、新しい概念に思うかもしれないが、実は昔から存在する。中世から近世前期の日本では、侍や農民などの身分を明かさず、俳諧や芸術を通じて第二の自分として集う文化があった。俳句や茶道などでは、複数の名前を使い分け、固定的な身分社会のなかに別の世界を構築していた。落語に関しても“アバター芸”と呼んでもいいほど、一人でいろいろな人格を演じる。
メタバースが注目され、アバターというものにも注目が集まっているが、そもそも人間はいろいろなアバターを社会のなかで使い分けてきた歴史があるのだ。メタバースに取り組む企業や個人は、それに伴ってアバターを生み出し続けているが、これまでの人々も俳句や茶道などでは、複数の名前を使い分け、固定的な身分社会のなかに別の世界を構築してきたという履歴がある。 そうした社会的ネットワークが現代では、メタバースでの人々のコミュニケーションやそこで形成される文化に表れているのかもしれない。
アバターによって人間の能力が拡張される
自分とは「異なる身体」で体験することで新たな視点「移人称視点」を獲得することで、学びをより深くできることにも注目したい。「バーチャルYouTuber(Vtuber)」は、今や当たり前の文化のように、世間に浸透している。彼らは自分の体とは異なる見た目や体を使って、ゲームの実況やコンテンツの解説などいろんな形で、仮想空間で活動している。
このようなアバターの持つ可能性も世界を大きく変える可能性がある。自分そっくりなアバターを使った場合と、アインシュタインのアバターを使った場合で認知テストの成績を比較すると、アインシュタインのアバターを使ったときに成績が上がったという研究結果もある。特に自尊心の低い人にこの効果が表れることが分かっている。
現実でも、社長になると社長らしくなるという「役職が人を作る」という話もある。アバターは、これを見える化した状態なのかもしれない。自分の体と周りの様子から、どんな役割を与えられているのか無意識に判断し、それにマッチした行動や思考を取るようになるのだと考えられる。
メタバースでは、基本的に普段の見た目とは違う見た目のアバターを使うため、見た目でのバイアスがかからない、あるいは操作することできる。そういう点では、アバターが自分の性格や人格になんらかの作用することは理解できる。また、人が持っていない能力を仮想空間のアバターによって拡張することも期待できる。
高所恐怖症の人に、人のアバターとドラゴンのアバターで空を飛べるVR体験をしてもらう。そのあと、仮想空間の高いところに登ってもらうと、人のアバターで体験したときよりもドラゴンのアバターで体験した後の方が恐怖感が減り、生理的な恐怖反応も軽減したという研究報告もある。
スタンフォード大学のバーチャル・ヒューマン・インタラクション・ラボで行われた実験では、運動しながら自分によく似たアバターが痩せたり太ったりする姿を見せられると、そうでない場合より長く、熱心に運動するということが実証された。このような、自分自身ではなく他人がある行為の結果として報酬を得ること、そして観察することを通して、自分もそうしよう、自分もできる、という思いを抱くことを「代理強化」と呼ぶ。そしてこれが、アバターによっても発生していると考えられる。自分自分のアバターから代理強化を得た被験者は、アバターのフィードバックがなかった被験者より、平均すると8倍多い頻度で自主的に運動したという。
アバターによって自分とは別の何者かになる感覚を得たり、また、現実世界にある見た目や年齢、性別や国籍などによる物理的な縛りから解放され、自分のなかにある違う側面が引き出されるようなことは、単に見た目の変身のみならず、自身の能力や認知が拡張されたり、自分でも知らない自分に出会える可能性すら感じる。
つまり、アバターとは、自分のなかに多種多様に存在する「多様なアイデンティティ」を用いながら、いろいろな経験を重ねていくもので、そのアイデンティティ一つ一つが成長を遂げていけば、今度はそのさまざまなアイデンティティの集合体である本人自体にも好影響を及ぼしていくものなのである。
アバターで自分を多様化する生き方
文化にしても、生物にしても、多様性が確保されていることによって、新しい価値が生み出されていく可能性は無限といっていいほどにあり、それは誰にもわからないもの。少し変わっていると思われるような人でも、道徳や倫理から外れてなければ、許容される社会のほうが、きっと一人一人の生き方も広がる。
社会全体としても、一見するとくだらないと思われるような行為や考え方をある程度包摂する道が、実は人々の気持ちを楽にするだけでなく、社会全体としても賢い選択であるのかもしれない。さらに言えば、未来のために有益であるのか否かの是非でさえ、こだわる必要があるのだろうか。下手に今の視点で未来になにが有益かを判断しても、それが正解になるという保証はどこにもない。
近年は「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)」という言葉にも注目が集まっている。多様性は現在人類が取り組んでいる課題の一つだが、「多種多様な人々」という意味での多様性のみならず、「個人の中の多様性」「多様な個人」という点においても、アバターは多様な社会を許容する文化になっていくと筆者の齊藤は考える。
ひとつの仮面を常に被ることを強制させられる社会では、人間はやがて息が詰まってしまう。複数の「アバター」が作るマルチな多様性の世界は、自分の脳の中にもあれば、自分の外の社会にもある。自分の中に複数の「アイデンティティ」、つまり「アバター」を我々は持っている。それぞれの場、人との出会いに応じて、自分の中のそれぞれのアイデンティティを大切に育てながら、しかもそれを時によって切り替えるというアバター文化は、多様性を認めた上の「自由な生き方」へと繋がるのではないだろうか。
齊藤大将
Steins Inc. 代表取締役 【http://steins.works/】
エストニアの国立大学タリン工科大学物理学修士修了。大学院では文学の数値解析の研究。バーチャル教育の研究開発やVR美術館をはじめとするアートを用いた広報に関する事業を行う。
Twitter @T_I_SHOW