大河ドラマ『どうする家康』解説①:桶狭間合戦の実像

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大河ドラマ「どうする家康」オフィシャルページより

今年1月から始まったNHK大河ドラマ『どうする家康』の第1回のタイトルは「どうする桶狭間」であった。今川方の武将として参戦したものの、今川義元の戦死によって前線に取り残されてしまった松平元康(のちの徳川家康)のパニックぶりがユーモラスに描かれていた。

桶狭間合戦は、今川義元が上洛して天下に覇を唱えるため、最初の障害となる織田信長を打倒するために起こった、と江戸時代以来、説かれてきた。『どうする家康』でもそのように描写されていた。

ところが、織田信長に近侍した太田牛一が記した信長の一代記『信長公記』には、今川義元挙兵の目的が上洛であるとは記されていない。同書によれば、尾張・三河国境に近い織田方の拠点である鳴海城の城主である山口左馬助が織田信長を裏切り今川勢を城に引き入れた上、大高城・沓掛城の二城まで今川方に寝返らせたのである。

義元は尾張侵攻の足がかりとなる三城を確保するため援軍を派遣したが、信長もこれに対抗して、鳴海・大高両城を包囲する形で、丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津の五つの砦を作った。すると義元は、織田軍の封鎖作戦によって前線で孤立した鳴海・大高両城を救出するため、自ら出陣したのである。

したがって上洛がどうのとか天下がどうのといった大仰な話は関係ない。織田方の封鎖を排除し、尾張国内にできた橋頭堡(沓掛・鳴海・大高)を確保するための作戦行動にすぎない。清須城を攻略して信長を滅ぼすことは、最初から目標に入っていなかった。在野の歴史研究者である藤本正行氏は「桶狭間合戦は、当時としてはごく平凡な、群雄間の境界争いの結果として起きた、ローカルな事件だったのである」と論じている。

『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)
出典:Wikipedia

さて、織田信長は善照寺砦から間道を通って田楽狭間の背後の太子ヶ根山に回り、谷底に布陣していた今川義元に対して奇襲を行った、と考えられてきた。

この迂回奇襲説を信長の天才的作戦として世間に広めたのは、参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』に全面的に依拠して桶狭間合戦を活き活きと叙述した徳富蘇峰の『近世日本国民史 織田氏時代前篇』である。そして『日本戦史 桶狭間役』が利用した史料は『甫庵信長記』や『桶狭間合戦記』といった江戸時代の物語であった。

これに対し藤本氏は、『信長公記』を丁寧に読み解き、同書には信長軍が大きく迂回して今川軍の背後をとったという記述がないことを発見した。すなわち、『信長公記』には、善照寺砦の信長は、家臣たちの反対を「ふり切って中島へ御移り候」と明記されている。これに従えば、信長は善照寺砦からすぐ南の中島砦に移っているのである。

むろん、この『信長公記』の記述は以前から知られていた。けれども、これまでの研究者・作家らは『日本戦史 桶狭間役』の迂回奇襲説に惑わされて、右の記述を軽視してきた。たとえば徳富蘇峰は、「…と太田牛一は記したが、その実は中島には移らず、善照寺より、田楽狭間の方に赴いた、と信ずべき理由がある」と述べ、『日本戦史』の説を採用する。

しかしながら、『日本戦史』の当該記述の根拠は『桶狭間合戦記』などの軍記類なので、より信頼性の高い史料である『信長公記』の記述を却下する理由にはならない。

また、『信長公記』によれば、義元の本陣は田楽狭間ではない。義元は沓掛城と、鳴海城および大高城の間にある「おけはざま山」で休息している。

通説では、桶狭間・田楽狭間という地名から、今川軍本隊は谷底にいたように考えられているが、実際には義元は見晴らしの良い丘陵地帯に布陣しており、織田軍の動きを眼下に収めていた。今川軍は鷲津・丸根両砦も落としており、善照寺砦の信長が今川軍の監視を逃れて進軍することは不可能である。

藤本氏は「信長が進軍中に、鷲津・丸根砦が落ちたことを知ったにもかかわらず、善照寺砦に入ったということは、彼が最初から、その行動を隠蔽する意思がなかったことを示しているのである」と指摘している。

前述の通り、『信長公記』の記述に従えば、信長は中島砦に移動している。中島砦は川の合流点に築かれた砦で、付近では最も低い場所にある。したがって信長の移動が今川方に気づかれぬはずはない。実際、義元は旗本と共に後方に待機し、本隊の一部隊(藤本氏はこれを「前軍」と呼んでいる)を前進させ、中島・善照寺砦の両砦に備えている。今川軍の警戒態勢を承知で中島砦に移った以上、信長に隠密に行動して義元に奇襲をかける意図はなかったと藤本氏は推定する。

『信長公記』には、信長が「おけはざま山」の「山際」まで軍勢を進めたところで豪雨となり、その雨が上がったところで戦闘を開始したとあり、豪雨がある程度の隠蔽効果を発揮した可能性はある。だが同書を読む限り、信長は中島砦を出て東に進み、東向きに戦ったと考えられる。藤本氏が評するように、「堂々たる正面攻撃」であり、迂回奇襲ではない。

ただし、藤本説への疑問点として、奇襲をかけられたわけでもないのに、今川軍の前軍が信長の一撃で簡単に崩れてしまった理由が十分に説明されていないことが指摘されている。藤本氏は、信長軍の襲撃を受けた前軍が独断で反撃せず、後方の義元本陣に連絡・報告したため対応が遅れたのではないか、と述べているが、これは推測にすぎず、史料的根拠はない。

さらに藤本氏は「劣勢なはずの織田軍が、午後二時という非常識な時間(味方の意図や布陣を隠し、戦闘時間を確保するため、準備は夜間にすませ、明け方に戦闘開始するのが常識)に、低い場所にある中嶋砦から強襲をかけてきた」ため、「予想外の事態に対応策をとる間もなく、前軍は一挙に粉砕され」たと説くが、これも推測の域を出ない。

このため、黒田日出男氏の「乱取状態急襲説」、小和田哲男氏らの「広義の奇襲説」、橋場日月氏らの「兵力拮抗説」など、桶狭間論争においては今なお諸説が乱立しており、意見の一致を見ない。だが、迂回奇襲説が成り立たないことは学界の共通見解になっている。

藤本氏は、桶狭間神話を妄信して、奇策による一発逆転を狙って敗北を重ねた旧日本軍を鋭く批判した。信長の型破りな発想力を讃える政治家・ビジネスマンは依然として多いが、旧日本軍の二の舞にならぬよう、歴史を学び直してほしい。

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