金融における不毛な忖度を豊饒な対話に転換するために

アゴラ 言論プラットフォーム

忖度とは、他人の心を推察することである。他人の心を推察して行動し、発言することは、社会生活のなかでは当たり前のことであり、必要なことなのに、忖度といわれるときには、必ずしも望ましいことではないとの響きをもつのはなぜか。それは、地位の格差を前提とし、下が上の意向を配慮して阿るような行動をとるときに、忖度という用語が使われるからではないか。

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監督官庁として、金融規制を司るものとして、金融庁が金融機関に接する限り、そこに優越的な力が働くことは、金融庁が意図しようが、しまいが、不可避である。故に、金融機関は、金融庁の意向を忖度せざるを得ないのである。

銀行や信用金庫等の金融機関は、融資業務を行う限り、債務者である顧客に対する関係では、優越的な力が働いてしまう。金融機関が意図的に優越的な力を行使することは、優越的地位の濫用として厳に戒められるところだが、意図せざるものとして自然に優越的な力が働いてしまうことは、金融機関には防げない。故に、顧客は金融機関を忖度するのである。

そして、忖度が働く限り、金融庁の真の意向は決して金融機関に伝わらず、金融機関の真の意向は決して顧客に伝わらない。故に、逆の方向性においても、金融機関の真の意向は金融庁に伝わらず、顧客の真の意向は金融機関に伝わらないのである。この事態に対して、金融庁は、真の顧客の意向に沿わない金融機関の営業姿勢を公然と批判し、金融機関は、金融庁の無理解を裏で批判する。不毛であり、不幸なことだといわざるを得ない。

実は、古い金融庁の行政においては、忖度の余地のない明確な数値基準を定めることで、問題を回避しようとしてきたのである。しかし、現在の金融庁は、金融機関の活きた動態を把握できなければ、有効な金融行政を適時に行うことはできないとの前提で、客観的な基準の画一的な適用を完全に否定し、金融機関と積極的に対話することにしたのである。

ところが、対話は対等なもの同士の間でしか成立せず、優越的な地位にある金融庁は、金融機関と対話できるはずもなく、金融機関の忖度病を悪化させるだけだという現実がある。それでも、金融庁は、その現実を承知のうえで、敢えて、決意をもって、対話路線に転じたのである。国民の経済厚生の増大という金融行政の真の目的を実現するためには、能動的に政策の調整と立案を行わなければならないからである。

森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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