「グラーグ」を模倣した新疆ウイグルの「再教育施設」

アゴラ 言論プラットフォーム

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Aleksei Nikolaev/iStock

5月26日のNHK News Web(ネット版)は、新疆ウイグルで「再教育施設」と呼ばれる施設の詳細を記した内部資料を、米国のウイグル問題専門家が入手したと報じた。資料は匿名の情報提供者が当局のデータベースをハッキングして流出したとされ、「新疆公安ファイル」と呼ばれている。

内部資料流出は19年11月以来だが、今回の資料は、同記事に拠れば主に2017年から18年のもので、

・ 「再教育施設」の内部とみられる多数の写真
・ 施設に収容された2万人余りの名簿とみられるもの
・ 少数民族のおよそ30万人分の個人情報とされるもの
・ 警備マニュアル
・ 共産党幹部の発言内容

などが含まれている。

「英国国営BBC(ネット版)」も5月30日、同資料の記事を掲載、人権団体は中国が過去数年間に100万人以上のウイグル人を、本人の意思に反して国家が「再教育施設」と呼ぶ大規模ネットワークに拘束し、数十万人に実刑判決を下したと考えているとし、達坂城地区の収容所の拡張の様子が判る15年、18年、20年の衛星画像を載せている。

記事は、同自治区は世界の綿花の5分の1を生産し、輸出綿花の多くが強制労働によって摘み取られていることに人権団体が懸念を表明しているとし、BBCによる20年12月の調査でも、最大50万人が作業を強制されていることが明らかになり、施設敷地内に新たな工場が建設された証拠もあると述べている。

「再教育施設」とはいうものの、その実態は強制労働によって「世界の綿花の5分の1」を摘み取る「大規模ネットワーク」である様だ。とすれば、この「ネットワーク」は、ソ連時代にスターリンが創り出した「グラーグ」と呼ばれる「集中収容所」のシステムに極めてよく似ている。

手許の『グラーグ 集中収容所の歴史』アン・アプルボーム著(白水社)を参考に、この二つの新旧共産主義盟主国の強制労働システムがどの様に似ているか見てみたい。

中国共産党は1921年7月、その2年前にレーニンが創設したコミンテルンの主導によって結成された。党内の熾烈な抗争を勝ち抜いた毛沢東は49年10月、国民党を率いた蒋介石との国共内戦に勝利し、蒋を台湾に追いやって中華人民共和国を設立した。

毛は、レーニン(24年1月没)や後継のスターリンが、共産ソ連を確立してゆくやり口を模倣した。ロシア人入植による領土拡張(中国の漢族下放)然り、32〜33年のウクライナ大飢饉「ホロドモール」(中国の大飢饉は59〜61年)然り、政敵の粛清然り、そして「グラーグ(GULAG)」然り。

グラーグは、収容所(ラーゲリ)を集中管理する官庁「収容所管理総局(Glavnoe Upravlenie Lagerei)」の略称だが、次第にソ連の奴隷労働システム、すなわち、労働収容所、懲罰収容所、刑事囚と政治囚の収容所、女性収容所、児童収容所、中継収容所などの多様な形態を総称する用語になった。

広義には、ソ連の弾圧システム自体、すなわち、逮捕、尋問、暖房なしの家畜用貨車での移送、強制労働、家族の離散、長期流刑、早すぎる非業の死など、かつて囚人達が「肉挽き器」と呼んだ手続き全体を表すようにもなった。

グラーグは、帝政ロシア下にシベリアで使役された強制労働者集団を前身とし、ロシア革命後ソビエト体制と一体化して近代化した。レーニンは革命の一環として、18年夏には「信頼できぬ分子」を主要都市外縁の集中収容所にぶち込むよう命じ、3年間で「人民の敵」の「更生」を目的とする収容所を43県に84ヵ所設けた。

スターリンは29年、鉱工業生産2割アップの5ヵ年計画達成のため、工業化の促進と極北の天然資源開発へのグラーグ活用を発案し、OGPU(KGBの前身)も収容所や監獄の管轄を司法機関から取り込んだ。37〜38年の「大量テロル」期から「囚人を死ぬまで働かせる収容所」が急拡大し、30年代末にはソ連の12の標準時帯の全てに収容所ができた。

が、グラーグのピークはこの30年代ではなく、第二次大戦のあった40年代も拡大し続けた。最大規模に達した50年代にグラーグはソ連経済の中心的役割を担うようになり、全生産金額の3分の1、石炭と木材は産出額の大半を占め、その他あらゆる産品を大量に生産した。

ソ連時代、476ヵ所のグラーグが確認され、これらは1ヵ所に数百、数千から数万人の収容者を抱える数千の個別収容所で構成された。囚人は考え得る産業の全て、すなわち、森林伐採、採鉱、建設、製造工場、農業、航空機や火砲の設計などで労働し、実質上、国家の中で別個の文明を形成した。

グラーグには独自の法律、習慣、道徳からスラングまで存在した。それは独自の文学、悪役、ヒーローまで生み出し、そこで過ごした全ての人に独特の刻印を残した。釈放された後もグラーグの住人は「目つき」でそれと判ったという。逮捕も釈放も頻度が多いため、こうした出会いは頻繁だった。

29年からスターリンが死ぬ53年まで、グラーグには常時200万人が収容され、累計1800万人がこの大量弾圧システムを体験した。他に600万人が先祖伝来の地を追われてカザフの砂漠やシベリアの森林に流刑された。流刑者は有刺鉄線の内側で暮らしたのではないにしても、強制労働者に変わりなかった。

スターリンのソ連では、有刺鉄線内の生活と外の生活との違いは程度だけの問題だった。グラーグでのスラングも、外の世界を「大きな(監獄)ゾーン」と呼んだ。「小さなゾーン」に比べれば「死の危険は少ないとはいえ、決して人間的ではなく、人道的ではないゾーン」と言う意味だ。

この様にグラーグはソ連の歴史の主要な一部であり、世界とロシアの監獄及び流刑の歴史の一部であり、また20世紀中葉の欧州大陸の特殊な精神風土の一つであって、この風土がドイツでナチスの強制収容所を生み出した。

ソ連とドイツのそれの違いは収容対象と収容目的にある。ホロコーストの「ユダヤ人」は死ぬまで収容されたが、グラーグの「人民の敵」は融通無碍で、「経済的効果」を狙った労働者だった。その意味では、グラーグのシステムには、多くの異なる文化と状況の中で利用される普遍性があった。

今そのシステムを利用しているのが習近平だ。スターリンは自身も14年までに4度流刑されたが、習近平も7年間の「下放」を経験者だ。二人には意趣返しでもあるが、このシステムが「人民の敵の排除と奴隷労働力化」という共産主義の風土や歴史に根差している以上、彼らはそれに罪の意識を懐かない。*

流出した「新疆公安ファイル」が公開された時期に中国を訪問したバチェレ国連人権高等弁務官について6月1日の『環球時報』は、彼女は新疆で、中国の民族・宗教政策と措置、新疆の反テロ戦略・脱過激化戦略の成果などについて説明を受け、綿花畑を見学して、新疆が少数民族の伝統文化や地域住民の生活を守っていることを理解した、と報じた。

彼女が、「グラーグ」自体が「小さなゾーン」であることを知っていれば、共産中国の官営紙が報じるような理解をするはずがない。が、結局は宣伝に使われた格好の、根が社会主義者の元チリ大統領には、きっと中国へのシンパシーがあるのだろう。中国にもソ連にも国連は全く無力だ。

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