“ドリアン・グレイ”になってはダメ:教皇が成長を拒む男性に危機感?

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バチカンニュース独語版(10月1日)をいつものように開いて記事を読みだしたら、「教皇」欄で奇妙なタイトルの記事を見つけた。曰く「フランシスコ教皇『ドリアン・グレイやピーター・パンのようになってはいけません』」という見出しがついた短い記事だ。

「ドリアン・グレイの肖像」の著者オスカー・ワイルド ナポレオン・サロニー撮影、Wikipediaより

アルゼンチン出身のローマ教皇がどうして突然「ドリアン・グレイのようになってはいけない」とか「ピーター・パンのようになってはいけない」と語ったのだろうか、という疑問が出てきたが、それ以上に「ドリアン・グレイの肖像」という題名のオスカー・ワイルドの小説を思い出し、「ドリアン・グレイは昔読んだことがある本の主人公だったな」と、旧友に会ったような懐かしさを覚えた。

アイルランド出身の劇作家オスカー・ワイルド(1854年~1900年)は好きな劇作家だ。「幸福な王子」が好きだったが、「ドリアン・グレイの肖像」は当方には少々理解が難しいテーマだったという印象がある。それ故にというか、記憶には残った。

本の解説を読むと、ドリアン・グレイはナルシストとして描かれ、本当の美とは何かをテーマとした物語という。耽美派のワイルドは唯一の長編小説「ドリアン・グレイの肖像」の中で自分の世界を描いていたのかもしれない。心理学の世界では、自己陶酔、醜悪恐怖症、発育遅滞などの症候を「ドリアン・グレイ症候群」と呼ばれている。ちなみに、三島由紀夫は生前、「ドリアン・グレイの肖像」に感動したと語っていた。

フランシスコ教皇は若者たちに、「ドリアン・グレイのようにナルシストにはなってはいけない」と説教したかったのだろうか。フランシスコ教皇は9月末、若者たちの教育、養成に努めるウルスリン共同体の養成会議で講義した時、若者たちを前に先の言葉が飛び出した。

「私たち」や「あなた達」という言葉より、「私(アイ)」や「私を(ミー)」が日常生活の会話で支配的な現代社会に生きている。セルフィーが流行し、「私」が写っていない写真は意味を失う。そのような中で、教皇は若者に自分の世界だけではなく、世界に目を向けてほしいという願いを込めて語ったのだろう。

フランシスコ教皇は「真の美」について言及し、「あなたの美しさを輝かせましょう!」という。「ここでいう美しさはファッション界の表面的な美しさを意味するのではなく、創造の最初の瞬間から、神が人間を自分のイメージで創造し、美はその後常に私たちに属している本当の美しさを意味します」と説明する。

その話の延長線でドリアン・グレイの話が入ってくる。もちろん、悪い例としてだ。曰く「魔法が終わったときに自分の顔が歪んでいることに気付いたドリアン・グレイのように、悪と折り合いをつけた美しさは本物ではない。真の美は神の美のイメージであり、私たちは本来、神を切り離すことのできない善であり、真実であり、美しい存在だ」と説明する。

作家ワイルドがフランシスコ教皇の解説を聞いて納得するかは分からない。「美の世界」に没頭していたワイルドにとって多分、美は人間存在の全てであり、もっとも大切なものであったはずだ。その反対は醜悪だ。ワイルドは同性愛容疑で逮捕され、刑務所生活をしているが、美は常にワイルドの最大の徳だったのではないか。ワイルドは「真の美とは何か」と自問するより、美の女神の誘惑に惹かれていったのではないか。

フランシスコ教皇はまた、「ピーター・パンのようにならないように」と警告している。イギリス・スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリー(1860年~1937年)の戯曲『ピーター・パン:すなわち、大人になりたがらない少年」が描いた世界だ。興味深いことは、「ドリアン・グレイ症候群」と同じように、「ピーター・パン症候群」という表現がある。人間的に未熟で、ナルシシズム傾向があり、大人という年齢に達しているが精神的に大人になれない、特に男性を指していう言葉で、「成長を拒む男性」とも定義されている。

フランシスコ教皇は未来を担う若者たちに自分の世界に籠るのではなく、外の世界に飛び出し、よりよい世界を創造するために頑張ってほしいという思いがあるのだろう。「ドリアン・グレイ症候群」も「ピーター・パン症候群」もパーソナリティ障害だ。フランシスコ教皇は現代の若者たちにこのパーソナリティ障害が増えてきていることに危機感をもっているのかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年10月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。