山縣有朋はAランクの政治家だと安倍首相に申し上げた話

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安倍元首相の国葬で菅義偉元首相が読み上げた弔辞のなかで、安倍氏が読みかけの本の中に、山縣有朋が先立った盟友・伊藤博文をしのんで詠んだ短歌に線を引いていたことを明かし、「かたりあひて 尽(つく)しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」を披露した。「今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません」と涙ぐんで語ると、参列者から大きな拍手が起きた。

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ところが、韓国では伊藤博文と山縣有朋の名を聞いて逆上している人たちがいる。朝鮮日報は「日本帝国陸軍創設者の山縣有朋は清日戦争と露日戦争を指揮した人物で、日本軍国主義の父とも呼ばれている」などと不見識な記事を書いているが、日本の高齢者の歪んだ歴史観の受け売りであろう。

正しくは、「山縣有朋は軍国主義者でなく、山縣を失脚させた旧賊軍(当時の呼称)関係者が日本を軍国主義と偏狭な民族主義へ導いた」のである。

日本帝国陸軍創設者であり日清戦争には前向きだったが、日露戦争には慎重だった。日本軍国主義の父などというのは馬鹿げた誹謗だ。1945年における悲劇的な敗戦に至る道を切り開いた軍人などというのは、まるで逆立ちだ。以下、私が書いたfacebookに書いたコメント。

長州閥を追い落とした東條英機ら反長州閥が昭和の戦争を引き起こしたと云う考え方の方が有力かと思います。

原敬と山縣は晩年非常に強い協力関係にあり、宮中某重大事件、皇太子外遊などで右翼と対立し、結果、原は暗殺され山縣は失脚したわけですし、山縣は慎重で国際協調主義の権化で、対華21か条などにも反対したわけで、彼が健在なら対米戦争などあり得ませんでした。また、彼の健在なうちの陸軍は国際法を模範的に守っていました。

長州閥は近代国家の推進者であり反長州閥は古い武士の論理を代表していたと云うことだと思います。ちなみに東京裁判で死刑になった中に薩長土肥が居ないのは一つの象徴です。

昭和天皇に洋行させたのは山縣です。廃藩置県も山縣が西郷を説得して断行したものです。小川治兵衛も山縣が海外で見てきた庭園の発想を取り入れるように細かく指導してあのスタイルを生み出しました。ただともかく慎重で、信頼した人以外に腹を明かさなかったので嫌われたのは事実です。さら、クリーンではなかったのでしょう。一般的に長州の人は伊藤博文や安倍晋三にようにクリーンですが、山縣が蓄財に熱心だったのは事実です。

安倍さんはなぜリベラルに憎まれたか」のなかでも、安倍さんと長州人について議論したことがあるということを書きましたし、そのときに、山縣有朋について保守系の言論人でも悪く云う人がいるのが残念だという話をしました。

安倍さんは、山縣有朋の評価についての最近の議論は、あまりよくご存じなかったようだったので、少し説明もしましたが、もし、最後の読書が岡義武氏による伝記だったというのなら、私が言ったことも少し頭にあったとすればうれしいことです。

さてここからは、「日本の総理大全」から、山縣有朋についての部分の抜粋を提供したい。

第1次山縣有朋内閣

黒田内閣の大隈重信外相によって進められた条約改正交渉は、メキシコとの間で初めて平等な条約の締結に成功し、他国とも外国人判事の任用を条件に妥結するかにみえた。

この改正案は、暫定的にこれを呑んだほうが急がば回れだった可能性は強い。黒田は、一方的な批判に憤慨した。しかし、世論の大反発を招き、かつ、少し妥協をしてはというアドバイスに耳を貸さず火に油を注いだ。

大隈がテロにあい右足切断の大怪我で職務続行不能となり、黒田は退陣を余儀なくされ、山縣有朋が首相となった。

こうして、第一回の総選挙と国会開会は山縣の手に委ねられた。総選挙は円滑に行われ、予想どおり民党が多数を占め、最大政党となった自由党の中島信行が議長となった。最初の議会では、政府予算案を国会がどこまで修正できるかが問題となった。民党は「民力休養」のため大胆な削減案を提出した。山縣は解散も考えたが、辛抱強く妥協点を探り、民党も最終的には現実的な範囲での修正で我慢した。

山縣と民党の両方がこの選挙と議会を成功させて文明国として世界からも認められたいという気持ちを共有し、落としどころをみつけたわけで、欧米以外で最初の議会を開いたトルコだが、たちまち国会を廃止する羽目になっていたのと好対照だった。

第一回の総選挙と議会を無事に乗りきったことは、今日からすると当たり前のことにみえるが、当時の世界の状況からすればいくら誉めても足りないくらいの快挙であった。

また、1889年に府県・郡・市町村の制度が確立した。また、条約改定の前提としても重要だった基本的な法律制定が進んだ。『教育勅語』が発布されたのもこの年である。明治天皇が明治になってからの近代教育を受けた子供が、江戸時代の悲惨な教育しか受けていない親や年長の兄弟のことを馬鹿にするのを憂慮したのがきっかけだった。

文明開化が一段落して伝統文化を再評価する余裕が出てきた時期代にあって、伝統と近代精神のバランスがとれたものだったが、すでに明治末年には時代遅れと言われるようになり、西園寺公望文相らは国際性や女性の役割を強調したものに改定しようとしたが、明治天皇の崩御で沙汰止みになり、国家主義的に悪用されたことは悔いを残した。

第2次山縣有朋内閣

第1次大隈内閣が倒れたとき、伊藤博文は清国を旅行中で、日本の大政治家として空前の歓迎を受け、戊戌の改革を進めていた光緒帝からは、清国政府の顧問になるように打診されたほどである。西太后は巻き返しを図って皇帝を軟禁する戊戌の変が勃発したが、伊藤が陰謀を企てたわけでもないので、引き続き歓迎された。

大隈内閣が辞職したときも、伊藤はまだ帰国していなかったので、後任は元老たちが相談して山縣有朋となった。と云うことになった。

第二次山縣内閣では、山縣子飼いの官僚集団から桂陸相、清浦奎吾法相、青木周蔵外相、平田東助内閣法制局長官、それに薩摩出身の山本権兵衛外相などが入閣した。桂も山本も留学して近代的な軍人教育を受けていた。

大隈内閣瓦解といっしょに憲政党も旧自由党と旧進歩党系に分裂した。ただし、憲政党の看板は自由党系が引き継いだのは、政党を監督する内相が板垣だったからである。そこで、進歩党系は憲政本党を名乗るしかなかった。

星亨が主導権をとった憲政党は、前内閣時代に政治任命された憲政党系官僚をしばし解任しないとしたが、猟官よりは、地方制度を政党に有利に改正する政策採用を優先したので関係は良好だった。また、控えめで時限にするということで地租増徴も実現した。

北京で義和団事件(北清事変)が起きた。民衆の反乱に西太后など清朝の中枢部が便乗して外国支配からの脱却をめざし、各国の外交団などを幽閉し、『北京の五五日』というアメリカ映画にもなった事件だ。

このとき、山縣は積極的に軍事行動を起こすとか、中国側に肩入れするといった議論を排し、諸外国の要請があって初めて本格的な部隊派遣に踏みきった。連合軍の主力となり、軍紀の良好さでも好評を得て、事後の賠償金分配では控え目な要求に甘んじ、列強の信頼を得た。文明国としての認知をついに世界から勝ち得た大功績だった。

平田法制局長官の献策で、文官任用令を改正し官吏の試験登用を原則とするとし、縁故や政治の横車で身分を失ったりすることがないヨーロッパ式の近代的で安定した官僚機構を確立し、文官分限分限令、文官懲戒令で綱紀を粛正した。

陸相、海相を現役軍人に限定することになったのもこのときだが、政党政治に移行するにあたって政党が軍の人事などに介入することを避けるための条件整備という面もあって、倒閣の手段として使われることを予定していたものでない。

一般的に民主化などの過程で、大きな前進を認めるかわりに、激変を避ける措置をとることはよくあることで、その激変回避措置を単独で取りだして反動的という批判をすることはフェアでないと思う。

山縣は長州藩で中間と言われる、足軽以下の階級の出である。原敬は山縣の勲章好きを揶揄して「あれは足軽だから」と言ったが、足軽ですらない。武士というのは足軽を含まないから、それより下の中間だから下級武士ですらない。士族というのは、明治になってきた言葉だが、それには辛うじて入る。

若いころ槍の腕前で知られ、その縁で吉田松陰に弟子入りし、やがて奇兵隊の幹部になり、ついで、大村益次郎の後継者的存在として徴兵制を創り上げた。西郷隆盛とも親しかったが、西南戦争では徴兵された兵隊の軍隊を指揮して薩摩武士を粉砕した。

また、近代日本の地方制度を創ったのも彼で、廃藩置県は山縣が西郷を説得して実現に持ち込んだ。主にフランスの地方制度を緻密に日本に合うように改良して持ち込み、地方議会も創設し、その枠組みは、令和の時代にあっても堅牢に残っている。

霞ヶ関の官僚制度も山縣の作品であって、その存在のお陰で、政党政治の導入や敗戦があっても国家の枠組みが崩れなかった。

ともすれば「民主化に棹をさした悪玉」として扱われることが多いが、安定した国家運営を可能にする制度を構築する役割も、民主化を進めるのと車の両輪なのである。

また、外交においては極端なくらい慎重で、軍隊の秩序も重視する近代主義者で、軍が暴走を始めるのは、山縣がいなくなってから、彼によって抑えられた古い武士の論理や美学が復活してしまったことによる。

山縣と伊藤は、非常に性格を異にしていた。伊藤は合理主義者で人材を見出すことはするが、徒党を組むことは嫌い、面倒見もほどほどである。だから、結構良く裏切られている。また、自分の自慢話をすることが好きだが、議論も好きだった。

山縣はその考えを述べることは少なく、とっつきにくいが、いったん信頼を得るととことん面倒を見るので、徒党をなした。

これ以降、山縣は再び宰相とはならなかったが、黒幕的存在として大正11年まで生きた。明治天皇が会議で居眠りをしたら音を立てて注意したし、大正天皇なども煙たがっていたし、皇太子(のちの昭和天皇)の婚約をめぐっては、島津家から受け継がれた遺伝的問題を理由に婚約破棄を主張して薩摩出身の牧野伸顕内大臣に敗れて晩年は力を減じたが、山縣の懸念は、間違った懸念ではないので批判されるようなことでなかった(宮中某重大事件)。

民衆に人気はなかったが、それが山縣の値打ちをいささかも下げるものではない。こうしたことも含めて、横車も押したが「駄目なものは駄目」といえる勇気をもつ日本人離れした大政治家であった。

追悼の辞を述べる菅前総理大臣 NHKより / 山県有朋 Wikipediaより