「脱成長」の時代がやってくるのか:コトラー氏の「新しい資本主義」

アゴラ 言論プラットフォーム

マーケティング論の世界的権威、フィリップ・コトラー博士が日経ビジネスに特別寄稿を寄せています。そのタイトルが「脱成長に向けた5つの視点」です。長文ながら吸い込まれるように数回、読み直しました。コトラーのパラドックスかと思うほど衝撃的だと思ったのは見方によっては氏のマーケティング論を否定しかねない内容だからです。ただ、私がスーッと理解できたのはこれが真の意味での「新しい資本主義」ではないか、と腑に落ちたからかもしれません。

フィリップ・コトラー博士 同博士SNSより

氏が何を主張したのか、単刀直入に数行で述べます。

「我々は資本主義という成長拡大を前提とする社会にいるが、これは天然資源が枯渇し、公害を生み、持続可能性という課題を突き付けた。70年代に起きた「成長限界」という議論は半世紀たった今、再度、検証する時期にあるのではないか。そして際限ない成長を止めるために政府部門が制御し、消費者の意識の変化が生まれるのではないか」という内容です。

例えば文中、コトラー氏は「マーケターは、特に消費の無限の増加のために非難されるようになってきている。科学的手段を使って、消費者が無限に買い続けるようにするからだ。しかし、マーケターはそもそも自社の商品の消費を減速させるよう指示する立場にはない。自分たちの生活のために、際限なく消費を推し進めなければならない」と述べ自分自身のマーケティング論を自己批判をしているようにも読めます。

脱成長の基本は消費をよりコアなものに絞り込んでいくことです。先週の「今週のつぶやき」で取り上げた食糧問題で私は飽食の時代は終わったのではないか、と意見しましたが、このコトラー寄稿を読む前に書いたものでした。氏は「人々は必要以上のものを食べている」と指摘しています。あるいは私はミニマリストに近いのですが、コトラー氏も「人々は必要以上に洋服を買う」とし、「一部のファッション企業は数回しか着られない、あるいは急速に流行遅れになるような服をデザインする」と述べています。

コトラー氏のこの発想はGDPの呪縛が世の中を狂わせたとみており、もっと別の指標があってもよいのではないか、と考えています。確かにGDPは国内経済成長率として成長し、その%が大きいほど良いと我々は何の疑いもなく考えています。この考え方をもう少し砕いて述べるなら人々の強欲(Greed)を抑え、もう少しフラットで人間らしい生活を求めるべきではないという提唱であります。

我々が住む現代は確かに様々な方面で目詰まりを起こしています。民主主義の在り方、権威主義との確執、資本主義も伝統の欧米型から中国型、北欧型、さらには日本型といった様々なスタイルが生まれ試行錯誤が繰り返されています。社会が進化し、地球環境が変化し、人々や国家のどん欲さが侵略を生むようになった今、人間社会の価値観は何なのか、じっくり考える時が来たとも言えます。

コトラー氏は現在91歳。戦後の社会経済政治の移り変わりの生き証人でありかつ、学者として深い見地から推し進めていったマーケティングの権威の向かったところが「脱成長」は驚くべき展開であります。もちろん、私はコトラー氏の考えをもろ手を挙げて賛成するところにまでは至っていません。非常に感銘深い内容であるものの、政府や人々が果たしてこの論理のとおりになるのか、という疑問はあります。

なぜなら欧米ほど強欲であるからです。それは私が30年間北米に住んで明らかに認識していることです。成長こそ全ての糧と考え、金持ちになるセミナーが花盛りとなり、働きすぎで人生を楽しめない人たちがより増えたようにすら感じます。そしてその一人は私であることも認識しています。

一方、コトラー氏は5つの視点のうち、「もし成長を減速させるのであれば、どの程度の速さで減速させるべきか?」という自問自答に「消費者支出が突然25%も落ちたら、その結果は直ちに有害で悲惨なものになるだろう。… 成長は、政治においても、経済においても、社会においても、疑う余地のない目標である。しかし、この目標は、資源が枯渇する世界では、最終的に災いをもたらす。だからこそ、低成長への移行がその答えになる」と述べています。これ、日本にピッタリ当てはまるのです。

日本はバブル崩壊後、先進国における低成長国家として特異な状況にあります。日本の低成長の理由はここで述べきれないほどいろいろなファクターがあるわけですが、日本がアメリカのような強欲社会ではなく、全般的にフラットな社会を目指してきたことは事実であり、「脱成長」という言葉は必ずしも同意しませんが、成長より安定、安全、安心社会の構築でありました。これは一考の価値があると断言できるでしょう。

文中、「Less is More」という発想を紹介しています。この考え方はジェイソン ヒッケルという学者の2021年の著書「How degrowth will save the world」で使われている言葉で最近一部で話題になっているものです。直訳すれば「少ない方がいい」であり、対義語がmore is better です。昭和の典型で山本直純の森永エールチョコレートの「大きいことはいいことだ」のキャッチが思い出されますね。

私は自分のこの10年ぐらいの生活では華美さが完全に抜けてきました。私が飽食を止めたのは秘書時代に飽食しすぎて続けられなくなったことにあります。会社の経費で世界最高レベルのものを食べ続けたけれど自分のお金では居酒屋しか行けないサラリーマンの性も感じたのでしょう。また、不必要にカロリー摂取を続けたことで「デブ」になり過ぎ、わざわざお金と時間を使って減量せざるを得なかったことに無駄を感じたのです。今では時々おいしいものを頂くことで十分な満足感を得られるようになったのです。

これが私流の低成長だと思います。2000年代初頭、高級ワインの入ったグラスをくるくる回しながら異業種交流会で普段会えないような人たちとの接点を必死に求めていた時代に懐かしさすら感じるようになったのは満たされた社会にいる幸福感がそのバックボーンであることに疑いはありません。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2022年8月29日の記事より転載させていただきました。

タイトルとURLをコピーしました