藤堂高虎の城は単純だが堅固~宇和島・今治・津・上野

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加藤清正や黒田官兵衛と並んで三代築城名人の一人とされるのが藤堂高虎である。甲良というところが近江国犬上郡にあるが、この小さな町は日光東照宮にゆかりのある二人の故郷である。一人は、棟梁甲良豊後守宗廣であり、もう一人は、東照宮の場所を決めたといわれる藤堂高虎である。

藤堂家は藤原氏を称し、佐々木氏の支族ともいわれるが、確かなのは、彼らが浅井氏に仕えていたことである。浅井長政との関係、秀長には心服したが、秀吉とはもう一つだった話、そして、大坂夏の陣では、淀殿と秀頼にとどめを刺す役を言いつかったが、浅井旧臣であるがゆえにさすがに断った話などは、「令和太閤記 寧々の戦国日記」でも紹介している。

高虎は、浅井氏を皮切りに主人をたびたび変えたが、豊臣秀長のもとで紀伊粉河城主となる。

秀長の養子である秀保の死後、いったん高野山に入ったが、秀吉から南予を与えられ宇和島(板島)の基礎を作り、朝鮮でも水軍を率いるなどして活躍した。秀吉の死後は家康に接近し、関ヶ原では大谷軍などを撃破し、宇和島に加えて今治を得た。

慶長13年には、伊勢伊賀に移り、とくに上野城を完成させ大坂への備えとした。このほか、江戸、名古屋、篠山、亀山など多くの城の縄張りにかかわった。いろいろの主人に仕えたが、高虎としては秀長と家康に心服していたようだ。

豊臣秀長に仕えていたこと、和歌山城の工事の責任者になったのが、城造りの最初といわれるが、本格的には、城主となった宇和島城だ。

宇和島城
うわじま観光ガイドHPより

卯之町という町が西予市にある。宿場町で日本一長い廊下を持つ開智小学校の校舎で有名だが、戦国時代には西園寺氏の本拠地だった。ところが、豊臣秀吉からこの地を与えられた藤堂高虎は、板島と呼ばれた沿岸部の島に城を築いた。これが宇和島城である。現在は埋め立てでわからなくなっているが、もとは海に浮かぶ城だった。

高虎の天守閣は天守台がなく下見板張りのものだったが、現存の天守閣は、1665年に建てたもので、漆喰で固められ、切り込み式の天守台の上にある。この天守台はいらないといって平地に高い天守閣を建てるのが高虎流だ。

藤堂高虎の城は、縄張りが単純なつくりで要害堅固でなさそうだが、広い堀があり、石垣には、屈折があって横方向から攻め手へ側射する工夫などはしっかり備えている。

来島海峡に面した今治城は、藤堂高虎が関ヶ原の戦功で宇和島に加えてこの地も領することになり、20万石の大名の居城として蒼社川の運ぶ砂でできた砂丘に築かれた。

今治城
出典:Wikipedia

陸からの攻撃より海への備えが重視され、城の海側に設けられた軍港には長い多聞櫓が続いていた。内堀がたいへん広いのは、築城のために大量の土砂を掘って盛り上げた故であるというが、津城などほかの城でも高虎は同じようにしている。

五層の天守閣も築かれたが、藤堂高虎が伊勢への転封を命じられたとき解体して持ち去り、途中で普請の手伝いを命じられた丹波亀山城の天守として利用されることになった。1980年に天守が復元されたが、場所は元の本丸のど真ん中でなく堀端である。宇和島城でも高虎の建てた天守閣は、天守台でなく岩盤の上に直接乗っかっていたから、今治城でこのような形式が取られたとしても不思議でない。

復元された天守閣は、亀山城の天守を参考にしつつも、破風がないと寂しいと思ったのか、飾りの破風を派手に付加したものだ。忠実な復元をよしとする人からは酷評されているが、それなりに、格好がついている。

藤堂高虎が築いた城は数多いが、町作りも含めて高虎の個性がもっともよく出た城である。

ここは、もともと安濃津と呼ばれ、日本でも有数の港湾だったのだが、1498年の明応地震で遠浅になった。

津には、1608年に藤堂高虎が入城したが、伊賀上野に堅固な城を築き対大坂戦略の拠点とした。津城は政庁という位置づけだった。それでも、今治城などと似た設計思想で、城を囲む二重の堀のそれぞれに少しずつ屈折があって、横方向からの攻め手への銃撃に備えていた。本丸の石垣の下には、犬走りという通路が堀の水面ぎりぎりに廻らされていた。

石垣は割によく残るが、戦前まで健在だった広い堀が、戦災の残骸の埋め立てに使われ、ひどく狭くなってしまって特徴を失っている。樹木が伸び放題になって、石垣が貧弱に見えるのも残念である。城内には藩校の門が移築されたり、三層の櫓が再建されているが、もともとなかった飾りの破風が加えられている。

伊賀上野城の藤堂高虎によって築かれた高石垣は、高さが30メートルもある。大阪城二の丸と日本一を競うものだ。

技法としては、角のところは、直方体の石を長辺の半分ずつ交互にずらしながら積む算木積み、それ以外では、石の形を削って調整し、隙間を少なくなるように補正する打ち込みはぎの典型的なものが見られる。

もともと筒井定次の城があったが、1608年に今治から移ってきた藤堂高虎が現在の城を築いた。南から西にかけて木津川、北に服部川が流れ、西にある大阪方面からの攻撃に万全を尽くした城の縄張りである。筒井時代もほぼそのまま取り込まれ、江戸時代には城代屋敷になっていたが、その西側に新しい本丸を造成し、その西側面が壮大な高石垣なのである。

現在の天守閣は、もとからあった天守台の上に、1937年に木造でつくられたものだ。ここに、もともと天守があったかどうかは不明である。一説によると、今治城のものを解体して大坂まで運んで上野にもってこようとしたが、急に丹波亀山城に行き先を変更したという。

藤堂高虎は、自分の領地だけでなく、家康に臨まれて、江戸・大坂・名古屋・篠山・膳所など多くの城の築城にかかわった。そのことはまた別の機会に。

※個別の城の記述は「江戸全170城 最期の運命 幕末の動乱で消えた城、残った城」(知的発見! BOOKS 021)