ゴルバチョフをロシアの国賊にした欧米の後悔

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人気絶頂のころのゴルバチョフがパリのソルボンヌ大学で講演して、「私は子供の時に洗礼を受けた」と口にしたとき、会場はどよめき西欧人たちは、ウラル山脈までヨーロッパだという明るい感動に包まれた。

その少しあと、私は主張先のミラノのスカラ座前の広場で、ローマ法王との会談のために訪伊したゴルバチョフを歓迎して市民たちが厳寒のなか街頭に押し寄せた現場に居合わせたことがあるが、それはまさに、コーカサスの山のなかから白馬にのった騎士が病めるヨーロッパを救うために現れたといったくらいの熱狂ぶりだった。

ドアを開け放った特別車両から四人のSPがピストルを高々と掲げて当たりを睥睨していたのが印象的だったが、しっかりゴルバチョフ夫妻の顔も見えた。

そのあと、ゴルバチョフはバチカンを訪問して歴史的和解をし、ついで、マルタでレーガンと会談した。

アメリカの大統領ロナルド・レーガン(右)とともにINF全廃条約に署名するゴルバチョフ(左)
出典:Wikipedia

ロンドンでは、まだナンバーワンになる前のゴルバチョフが訪れたというイタリア・レストランで、夫妻が食べたというスパゲティ・ゴルバチョフとかいうのを頂いたことがある。キャビアとサーモンが入っていた。

そのとき、私はミラノからモスクワでの日ソ科学技術交渉のために行ったが、ペレストイカは外交と言論だけで市民生活にはあまり変化がないようだった。

赤の広場に面したモスクワ・ホテルというレーニンが長期滞在したというホテルのスイート・ルームに泊まることになったのだが(同行の外務省高官が大使公邸に泊まることになったので私にまわってきた)、ぼろぼろのグランド・ピアノがあって、部屋ごとにつくメイドさんの部屋が横にあってロシアの老婦人がゆっくりと編み物をしていた。窓からは粉雪がちらつく赤の広場が幻想的だった。

しかし、欧米はロシアが欧州の国だとゴルバチョフを見て勘違いした。しかし、ロシアは半分タタールだ。ロシアの歴史を知れば、ロシアはモンゴル帝国とともに欧州と戦ったことが国家のルーツだ。

ゴルバチョフがヨーロッパ人らしく振る舞うのをみて、それをロシア人も歓迎してロシアも変わると思ったのが間違い。

しかし、ゴルバチョフはソ連を解体するつもりはなかった。しかし、この点においては、欧米もゴルバチョフを支援しなかった。

ソ連は漂流し、無秩序なソ連解体とエリツィンのもとでのマフィア支配の惨状に陥っていった。

ゴルバチョフから権力奪取を狙ったエリツィンはウクライナとベラルーシとともに、ソ連から脱退した。ウクライナはロシアから独立したのでない。

また、ロシア人のゴルバチョフへの評価は低い。ロシアの「フコンタクチェ」というSNSに載った「過去500年のロシアで最も偉大な君主は誰か?」というアンケートでは、スターリンが1位で179票、ピョール大帝が110票、プーチンが73票、19世紀のアレクサンドル三世が40票と続き、ゴルバチョフは4票であった。