1度きりの人生、悔いがないように生きたい。10代の頃、そう思った私(中澤)は、ギターを手に取りバンドを始めた。大学卒業後、上京してバンド活動を続けた理由もそれに尽きる。多くのバンドマンは多かれ少なかれ同様の想いを抱いているに違いない。
そんなバンドマンたちがバンドをやめる時、そこには必ずドラマがある。人知れず繰り広げられた人生のドラマを聞くのが本連載『バンドマンのその後』だ。第1回目は高円寺のパンクバンド・驢馬(ろば)で活躍したギタリストのNGさんである。
・驢馬とは
渋谷、高円寺、下北沢を中心に2011年から5年間活動を繰り広げた驢馬。村八分などの再発も行う知る人ぞ知るインディーズレーベル「GoodLovin’Production」に認められデビューを飾った後、自らレーベルを設立、全国ツアーなどライブハウスシーンで精力的な活動を展開した。当時のアー写からもその地下っぷりが感じられる。
尖りすぎて刺さりそうな雰囲気はハッキリ言うと怖そうだ。多分、私は対バンしても話しかけられないだろう。そんなNGさんは今……
こうなってます。
蔵前近辺に3店舗と福井に1店舗を展開する自家焙煎コーヒー屋『SOL’S COFFEE』の統括マネージャー兼取締役である中島(=NG)さん。今の彼を見て元高円寺のパンクスと気づく人はいないに違いない。まずは、そのバンド人生の始まりから聞いてみた。
・バンドをやり始めたキッカケ
中島さん「ローリングストーンズの『ストリップド』のライナーノーツで序文を書いていた三代目魚武濱田成夫(さんだいめうおたけはまだしげお)の影響で、中学生三年生の夏休みに詩を書こうと思いました。なぜか男は夏に詩を書いて、ギターで歌をつけなければいけないと思い込んでいたのがギターを弾き始めたきっかけでしたね。
高校に入ったら軽音楽部の先輩がステッペンウルフの「Born To Be Wild」をやっていて、それに衝撃を受けてバンドを始めました」
・驢馬結成
やがて、バンドだけではなくホテルやカフェでもギャラをもらって弾くようになったという中島さん。そんな数々の活動の中で出会い、少しずつ結成されたのが驢馬だった。
中島さん「ギタリストとして食っていきたいっていうか、すでにプロという気持ちで活動をしていましたし、1人のプレイヤーとしてプロであろうと意識もしていました。
その上で、驢馬のメンバーには影響を受けましたね。自分はブルースが好きで音楽性は違ったんですが、パンクスのDIY精神はカッコイイと思いました。驢馬の最初のデモは多摩美術大学の研究室で録音したことを覚えています。ツアー先に1人で先入りして飲み屋に飛び入りで演奏したりもしましたし、とにかくガムシャラでしたね」
──当時の対バンや音楽仲間で有名になった人とかはいますか?
中島さん「『a flood of circle』のドラマーの渡邉一丘は幼馴染で一緒にバンドを始めた音楽仲間です。あと『踊ってばかりの国』のギターの丸山は高校時代からのバンドメンバーで、驢馬の前身バンドのメンバーでもあります。『思い出野郎Aチーム』は多摩美時代のジャズ研の学友だし、『GEZAN(げざん)』はよく対バンしました」
・バンドの終焉
大学を卒業後は、吉祥寺のライブハウス『フォースフロア』で働きながら、日々音楽を奏でていたというから、まさにライブハウスミュージシャンと言えるだろう。そんなアンダーグラウンドにどっぷりの生活が変化していったのはバンドの終焉がキッカケの1つだったという。
中島さん「驢馬の解散については、音楽活動に対する考え方の違いが一番大きかったように思います。各メンバーの理想と現実が絡まり合って、止められない流れになってしまったという感じでした。
そんな時、同時進行で活動していたユニット『zampano』も活動休止になりました。こちらは直接的な原因は分からないんですけど、タイトなツアーを回っていたのでストレスからかボーカルが脱退してしまって。新しいボーカルを探し、見つかったんですけど、2回くらいライブをやったところでそのボーカルが死んでしまったんです。
その時のことは、今思い返しても嘘だったんじゃないかと思うくらいぼんやりした記憶ですね。ひとつ言えるのは、もう続けられなかったということです」
活動していた2つのバンドが一気になくなってしまった中島さん。そんな時に出会ったのが『SOL’S COFFEE』の社長にして、現在の奥さんである荒井利枝子さんだったという。
・コーヒー屋はパンクス
中島さん「2つのバンドが無くなった時、音楽レーベルをやりたいと思ったんですね」
──音楽レーベルってCDの流通会社のことですか?
中島さん「どちらかと言うとCDを作る会社ですね。レコーディング機材は持っていたし、幸い、驢馬の時にインディーズレーベルを起ち上げた経験もあって自分が素晴らしいと思う音楽を広められたら良いな、と。CDのプレスなどについても安めの会社を知っていたりある程度のノウハウもあったので」
──台湾のプレス会社とか安いですよね。自主製作盤の救世主的存在です。
中島さん「そうそう! で、コーヒー店を切り盛りしている利枝子に相談してみたんです。そしたら「CDのプレス機買ってみたら?」と言われました。その言葉を聞いて目からウロコが落ちる想いでした」
──と言うと?
中島さん「自分のレーベルをやろうというのに、私はバンドマン時代のノウハウからプレスをどこかに注文することが当たり前だと思ってました。プレス機を購入して自分でプレスするなんて考えたこともなかったんです。
しかし、確かに、自家焙煎のコーヒー屋なら焙煎機を持つことでブランドを確立できます。しかも『SOL’S COFFEE』は壁も床もパンもお菓子も自分たちの手作りです。私のインディーズレーベルの考えより、よっぽどDIYで独立していてオリジナリティーがあったんですよね。コーヒーショップってパンクスだったんですよ」
──コロンブスなみに発見しましたね。
中島さん「その時にこの人のところで働いてみようかなと思いました。そして、実際に『SOL’S COFFEE』で働き始めてコーヒーのことをより深く知ると発見ばかりで。
スペシャルティコーヒーっていうムーブメントがあるんですけど、これは簡単に言うと、巨大企業のやり方に対するカウンターカルチャーなんです。
以前は、地域とか国でひとまとめにされた玉石混合の豆を安く大量に買いたたいてコーヒーを薄利多売で売ることが当たり前でした。でも、それだとコーヒー農家がどんどん苦しくなる。だから、良いコーヒー豆には適正な価格を払おう。それにより、コーヒーショップとしてコーヒーの質を上げつつ、農家にもお金を還元して、コーヒー自体の価値をあげようとする考えです」
──カウンター! なんだかMTV全盛期にニルヴァーナが登場したみたいな話で胸が熱くなりました。
中島さん「そうそう! スピリットに似た匂いがしますよね! それで調べてみたら、実は、スペシャルティコーヒーには、ヒッピームーブメントとか、パンクカルチャーの人たちが深くかかわっていたんです。何かが繋がった感じがしましたね」
──ということは、スピリットは変わっていないと?
中島さん「まあ、あくまでコーヒー屋のつもりなんですけど、もうパンク精神が根付いちゃいましたね。実際、台湾のコーヒーイベントに呼ばれた際にはギターも弾きました。もちろん呼ばれたのはコーヒー屋としてでしたが(笑)
また、ユニクロ浅草店とコラボで『SOL’S COFFEE』のTシャツを作っているんですが、コーヒーの麻袋のデザインをそのまま使っているんですね。その元の麻袋を作ったコーヒー農家に売り上げの一部を還元することになっています。
服を買いに来た人々にもコーヒーという結果だけではなく、農家で豆を作るところから全てのプロセスが商品だということを知ってもらいたかった。こういった小さなコーヒー屋の主張を伝えるのに、大きな企業の影響力を利用できたことは個人的にはおもしろいと思います。こういう考えはパンクバンドをやってたから出てきたものだと思います」
・バンドをやって良かったと思うか
現在の夢は「コーヒー豆農園で働く人の奏でた音楽を現地で録音して、お店でかけたり、流通してお金を還元すること」なのだという。
こうして、バリスタとして独自の道を歩むことになった中島さん。最後に、そんな中島さんに「バンドをやって良かったか」を質問してみたところ以下のように答えてくれた。
中島さん「今でも、たまにツアー中の夢を見ます。なぜか音が出ないとか、ステージに立ったら機材全部忘れてるとか、パッチケーブルが一本繋がってないとか。色々あったけど、驢馬でのガムシャラな活動はロマンがあったし、そこでしか得られない体験がありました。
驢馬を含めて、バンド活動していた時代は本当に大切な思い出です。今の私があるのはバンド活動のおかげですね」
──そのコーヒーは人生の味。蔵前に来た時は、ぜひ『SOL’S COFFEE』に立ち寄ってみてくれ。人生いろいろ~♪
・今回紹介した店舗の情報
店名 SOL’S COFFEE ROASTERY
住所 東京都台東区浅草橋3丁目25−7 NIビル1F
営業時間 8:00~17:00
定休日 水曜日
参考リンク:SOL’S COFFEE
執筆:中澤星児
Photo:Rocketnews24.、横尾裕太