ユーゴと違いNATO介入できない訳 – 舛添要一

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 ロシア軍がウクライナに侵攻してから4週間目に入った。停戦交渉も行われているが、解決の糸口は見えない。その間も戦闘は激化し、被害も拡大し、避難民も300万人を超えた。

 ゼレンスキー政権は、NATOに対して飛行禁止区域の設定を求めたが、NATOはこれを拒否した。もしウクライナ上空を区域に設定すれば、ロシアの戦闘機は入れなくなる。そして、侵入警戒のためNATOの空軍機が動員され、違反して侵入する航空機がないように警戒飛行を行う。

 そうなると、侵入しようとするロシア機とNATO機が戦闘状態に入る可能性があり、それは第三次世界大戦の引き金となる。そもそも、同盟国でもないウクライナに集団安全保障を適用することはできず、NATOは軍事介入していない。できるのは、武器援助のみである。

 ここで思い出すのは、1995年のコソボ紛争の際のNATOによるユーゴ空爆である。

 第一次大戦後に誕生したユーゴスラビア王国は、第二次大戦後、チトーの下で、ソ連邦の衛星国ではない自主的な社会主義連邦国家として再出発した。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と称される多様性にあふれる国は、チトーのカリスマで統一を保ってきた。

 しかし、1980年5月のチトーの死去後、経済も悪化し、国内の分裂要因が拡大した。そして、1989年のベルリンの壁崩壊後、東欧諸国の民主化に刺激されて、ユーゴを構成する各国は独立の動きを強める。1991年6月、10日戦争の結果、スロベニアが独立し、9月にはマケドニアも独立した。

 スロベニアと同日に独立宣言したクロアチアでは、セルビア人も住んでおり、クラアチア政府に対して抵抗し、内戦状態となり、多くのセルビア人が難民となった。国連が平和維持軍を派遣するなどして介入し、事態が落ち着いたのが1995年の11月である(クロアチア紛争)。

 1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立したが、ボシャニャク人(ムスリム)とクロアチア人は独立推進で、セルビア人は独立反対で、三者入り交じっての内戦状態となった。

 1994年にはNATOがセルビア人地域に小規模な空爆を行った。1995年にはNATOはセルビア人勢力に大規模空爆を行い、10月に停戦に漕ぎ着けた。12月の合意で、ボシュニャク人・クロアチア人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国を独立性を持つ形での国家連合が成立した。

 また、1998年にはセルビアでもコソボ自治州が独立を目指し、アルバニア人の武装勢力がユーゴスラビア軍及びセルビア人勢力と戦闘に入った。1999年になって、米英仏露独伊の調停チームが和平案を提示し、アルバニア側は同意したが、ミロシェビッチ連邦大統領をトップとするセルビア側は同意を拒否した。

 このため、3月にNATOは大規模な空爆に踏み切った(Operation Allied Force)が、ユーゴ軍やセルビア人勢力の抵抗は激しく、85万人もの難民が出た。その後、2008年2月にコソボは独立を宣言した。

 NATOは、域外への空爆を含む軍事介入を正当化するために、「人道上の理由」を持ち出した。しかし、国連安保理決議もないまま行っており、様々な問題があることもまた事実である。

 今のウクライナ戦争について言うと、NATOはウクライナで第三次世界大戦の引き金を引くわけにはいかないのである。