11月22日の日経の新特集、「〈ニッポンの統治〉危機にすくむ1 国むしばむ機能不全 コロナ下に自宅で尽きた命 ルールが目的化、現実見ぬ縦割り」はその記事の最後にこう締めくくっています。
「1990年代後半から続く政治主導の掛け声の下、政策形成は官邸の一握りの集団に権限が移り、人事でも首根っこを押さえられた官僚は内向き思考を強めてきた。政治が自ら責任をとって官僚機構を動かそうとしなければ、彼らは縦割り組織やルールの壁の内側にこもり、保身を最優先するしかない。
55兆円を超し、規模は大きいが、新しい日本をつくろうという気概が感じられない経済対策も今の政治と官僚機構の機能不全を映し出している。未経験の危機が繰り返し世界を襲う21世紀。変化のスピードがかつてなく高まる中、統治機構を再構築しなければ、日本は世界から完全に取り残されてしまう」と。
典型的なダメダメ論の一つです。他にもあります。日経ビジネスの「ゆるブラック企業、残念な働き方改革の末路」という特集で「転職市場最前線からの警告 若手からやりがいが消えている」というサブタイトルに見える若手の喪失感です。
あるいは同誌の特集「東芝解体」では東芝が犯した4つの失敗に関して一つ目の失敗である不正会計問題の際に膿を出し切らなかった影響が指摘されています。
このような日本ダメダメ論は正直、至る所にありますが、シニアの方にはそんなことないと反発する声、あるいは聞きたくないと耳をふさぐ人、一方で若い人は諦めの境地という人もいらっしゃるでしょう。
我々はバブル崩壊後、失われた時代を延々と続けています。この「失われた」は何を指しているのか、といえばたぶん経済指標ではないかと推測します。ですが、よく考えると昔の良き時代の日本と比べ、変わりすぎた現代社会を失われた時代と称しているのかもしれません。すなわち哀愁です。
これを論じるならば「元に戻れば」よいことになりますが、今更あの時代に戻ることは逆立ちしてもあり得ません。つまり、「失われた」のではなく、新たな時代に移行するなかで人々のマインドセットが明治維新や大戦直後のようなドラスティックな変化を受け入れなかったということかもしれません。
しかし、これにも異論があります。1868年の明治維新は学校の歴史の教科書上ではいかにもある日突然変わったような教え方を受けてきました。
例えば私たちは明治4年の散髪脱刀令で刀を持たず、頭はざんぎりにしたことでいかにも新たな時代が来たと理解したのです。しかしそれは表層のルールや暮らしぶりであって人間の考え方がすっかり変わったわけではありません。
明治の考え方を民が周知し、近代化が一応の完成をみたのは私の見立ては日露戦争の勝利だったと思っています。つまり40年近い日を経てようやく江戸は終わったのだ、というのをあらゆる方面で実感したのです。
同じことは大戦後の経済的大躍進でもいえます。これも躍進がいったん幕を閉じたのが1990年で、そこから大きな調整期間に入っているとするならば日本には極めて大きな時代変革をもたらす何かが起きないと国民ベースで変わっていかないのかもしれません。