わたしは長年、オウム真理教の後継団体として知られているAlephと訴訟で闘い続けてきました。また、山田らの集団を含めたいかなる後継団体とも関係しておりません。
2017年11月、オウム真理教問題の第一人者を自認する滝本太郎弁護士が、観察処分の審理に際して、オウム真理教に山田らの集団を含め三女派なるものがあり、監視すべきである旨主張する上申書を、公安調査庁などへ提出しました。
この上申書は、翌年1月22日に、滝本弁護士が運営するブログに公開されています。
「オウム真理教問題の第一人者」の「専門家」としてマスコミの取材を受け、しかも弁護士という肩書きを持つ滝本氏が国にわたしの監視を求め、さらに上申書を公開したことに、わたしは絶望しました。
片隅ではありますが、わたしはこの日本社会で個人として生活しています。
監視をされ、オウムそのもののように扱われてしまえば、今度こそ生きていけなくなってしまうかもしれない。
たとえ国家が動かずとも、「オウム真理教問題の第一人者」である「専門家」に、わたしが国の監視が必要な危険な人物であると決められたら、再び報道被害にさらされ、やはり生きる道が閉ざされてしまうでしょう。
ペンによる暴力は、高校や大学の入学拒否、仕事の解雇、離職せざるを得ない状況に追い込まれるなど、そのまま生身のわたしに突き刺さってきます。銀行口座も作れません。外国に行く自由もありません。
そうなったとしても、わたしを助けてくれる教団などの組織はありません。
わたしは、この上申書を公開したことが名誉毀損であるとして滝本弁護士を訴え、その判決が11月10日、さいたま地裁でありました。
――損害賠償請求は棄却。
わたしの生い立ちを別にしても、もともと民事訴訟で弁護士を相手に勝つことは、難しいことだと言われています。それでも力を尽くして訴訟と向き合い、もしかしたら今回は勝てるかもしれないという感触を抱いたところでの、棄却判決でした。
人権を守る最後の砦である裁判所が中傷を止めてくれなければ、裁判所のお墨付きを得たとして、また嘘が広められてしまう。
わたしは、生まれや親が教祖であったという立場ゆえに、松本麗華という一人の「ひと」として認められることなく、これからもペンの暴力や報道被害にさらされ、生きるのをあきらめるその日を、待つしかないのか――。
目の前が暗くなりました。
判決を読むのは、気が重く、なかなか進みませんでした。
でも、読み進めていくうちに、裁判所は滝本弁護士の主張を正しいと判断したわけではないのだと気づきました。
それどころか、滝本弁護士がこれまで主張してきたことを、否定する内容を認定してくださっていたのです。
- わたしがアレフなどに入会しておらず、活動にも関与していないこと
- わたしがオウム真理教を承継した団体の指導的な立場にはないこと
- 「山田らの集団」はわたしの影響下にはないこと
- オウム真理教の後継団体や元信者にわたしを指導者とする集団はないこと
- わたしには、滝本弁護士がいうような宗教上の関係に基づくお付きの人はいないこと
特に、5のお付きの人に関しては、滝本弁護士が伝家の宝刀のように使い、わたしの自由を奪おうとしてきた主張です。アレフと訴訟で闘っていようと、教団と関係がなかろうと、滝本弁護士はお付きの人がいるからわたしがオウムから離れてない旨、主張し続けてきました。
今回の裁判では、お付きの人は現実にはいないことを認めたのです。ただ、お付きの人がいると信じてしまったとしても仕方がないということで滝本弁護士の責任は生じないとされました。つまり上申書を書いた時点で、滝本弁護士がお付きの人がいると信じたことに相当な理由があったという判断だったのです。
しかし今後は、お付きの人がいると信じてしまったという言い訳も、お付きの人がいるからわたしがオウムから離れていないと主張することも難しくなります。
「三女派」という表現については、わたしが「派閥を率いていることまで示すものでは」ない、「指導的な立場にあることまでも示すものではない」ということで、名誉毀損が認められませんでした。
この認定には正直思うところもあり、別に記事を書きますので、是非読んでください。いずれにしても、今後、わたしが教団を差配しているといった、事実に反する主張もできないと言っても過言ではないのではないかと思います。
これまでわたしは、存在しないことの証明、悪魔の証明といわれるものをするよう求められてきました(例えば、教団とは関係がない、お付きの人はいないなどです)。
時の流れも加味されず、過去に起きたことが現在も起きているかのように扱われてきたのです。
確かに、かつてわたしはオウム真理教という教団にいました。「正大師」と言われていたこともありました。しかしそれは、わたしの生まれゆえのことであり、20年以上も前の話です。
棄却されたのはつらくて悲しいです。悔しい思いもあります。「誤解」であろうとも、わたしの監視を求めるようなことをしてはいけないと、裁判所に認めてほしいです。