国別対抗形式の五輪運営を疑問視 – かさこ

BLOGOS

五輪開会式だったか閉会式だったか、参加各国の国旗がずらっと並ぶのを見て、未だ世界は国家の呪縛から逃れられないのかということに問題意識を持つ人は果たしてどれほどいるのだろうか?

東京五輪はジェンダーフリーといった性別差による「不平等」みたいなことにはすごく目を向けられていた大会だったように思う。

でも未だに国籍・国家に縛られて人は生きている。
世界は200近い「国籍」で分断され、その壁を越えることは極めて難しい。

未だ世界の基準は国家で、国別対抗で代表を決め戦い、争い、金メダルを競い合う。
これが本当に平和の祭典なのだろうか?

たとえばコロナで参加できなかったといってもいい北朝鮮。
どれだけ素晴らしい運動能力に恵まれたとしても、北朝鮮に生まれてしまったら世界大会に参加することはできない。

たとえばベラルーシの選手は政権の弾圧を恐れポーランドに亡命した。

たとえば逃亡したウガンダ選手は、生活の厳しい母国に戻りたくない、
日本で働きたいと思ったが、ウガンダに強制帰国させられた。

国籍・国家に縛られている世界。
決して自由な世界でもなければ人権が守られている国ばかりではない。

そもそもなぜ国別代表で戦わなくてはならないのだろうか?
チーム戦はまだしも個人戦なら、国別で代表選手を決めるのはおかしくはないか?

国別で選手枠を決めるのではなく、世界ランキング上位の個人が集まり争えばいいはずが、国別代表という縛りにより、純粋な能力順で選手が参加しているわけではない。

これだけボーダレスな社会になった中、国籍という区分けだっておかしい。
外国人と日本人が結婚した子供は日本代表なのか?どちらの代表なのか?
日本にほとんど住んでいなくても日本代表なのか?

別に日本に限った話ではなく、国際結婚で生まれた人もいるだろうし、居住地区と国籍が違う人もいるだろう。

国籍で人を区分することはそれこそ差別ではないのか?
なぜ1つの国のあてはめられなければならないのか?

未だ世界は人類は国籍・国家で縛られているのはあまりにナンセンスではないか。

五輪開会式・閉会式で国旗がたくさん並ぶ光景を見れば見るほど、未だ人は国籍で区別され、その区別から「フリー」になることは極めて難しい。

20世紀、国同士で戦争していた時代なら五輪もそのような形でやむを得なかったのかもしれない。
しかし今、国際交流が進み、人を国籍で分けることこそ差別でありナンセンスではないのか。

人が一人の人間として尊重され、認められ、自由にどこでも移動でき、どこでも自由に働き、どこでも自由に能力を発揮できる世界には残念ながら程遠く、200もの国や地域に分断され、国籍をアイデンティティに強制され、その制約の中で選手たちが選ばれ参加し、プレイしているという現実。

今のような国別対抗形式の五輪は、国籍・国家の呪縛に縛られた旧来の価値観に基づいた運営でそこに疑問を持たないことこそ平和ボケなのではないかと思う。

Source

タイトルとURLをコピーしました