[再]幻の川崎“8の字”モノレール計画とはなにか

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8の字型路線のモノレールの想定路線図

昭和時代の中頃から終わりにかけて、神奈川県川崎市に、モノレール路線の建設が計画されていたことがあった。

そのモノレールは、川崎市のいわゆる鉄道空白地帯をぐるりと結ぶ予定であったが、結局、作られることはなく、幻に終わった。

計画当時の資料を見て、どんな計画だったのか、ふりかえってみたい。

8の字モノレールの計画

神奈川県川崎市にあったモノレールといえば、向ヶ丘遊園にかつてあったモノレールが有名かもしれない。
このモノレールは今から20年ほど前に廃止され、現存していない。
さらにいうと、よみうりランドにも環状のモノレール線が1978(昭和53)年まであった。

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モノレール線がこんな近くにふたつもあった

今では見る影もないが、川崎市はモノレールが豊富な土地柄だったといえる。そしてさらに、川崎市には実際に作られることがなかったモノレール線の計画があった。「川崎都市モノレール」と呼ばれる計画だ。

まずはその路線の計画図を見てほしい。1975(昭和50)年に川崎市が行ったモノレール建設に関する基礎調査報告書の中にあったルート案の図だ。

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川崎都市モノレールの路線図案(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)

川崎市は、南側の臨海部と、北側の丘陵部にわたってほそながい形をしている。モノレールは、その北側部分をぐるりとまわる形になっている。溝ノ口駅から野川に向かい、有馬、犬蔵、平などを周り、登戸、新百合ヶ丘、王禅寺、長沢を経て、溝ノ口に戻る8の字に運行する路線だ。

土地勘がないとすこし分かりづらいかもしれないので、大雑把に地名を書き込んでみた。

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薄い赤線は川崎市の市境

上の図でも少しわかりにくいかもしれないので、グーグルマップに、川崎都市モノレールの8の字案の路線図を落とし込んでみた。

いうまでもなく、この路線図は、ぼくが資料をもとに推定して作ったものであるため、正確ではない。また、駅名については、後ほど述べる。

8の字だけじゃなかった

さらに資料(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』)をひもとくと、このモノレールは、8の字だけではなく、複数のルート案を検討していたことがわかる。

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都市モノレールルートパターン案の計画目的からみた評価その①(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)
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都市モノレールルートパターン案の計画目的からみた評価その②(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)

N型、ヨコS型など、想定される10種類ほどのルートパターンについて、「区域の一体化を図る」「市域の一体化を図る」「需要に答える」「採算性を重視する」などの目的と合致しているかどうか、長所、短所をそれぞれ書き出し検討している。

そして、その中から「ダブルO型」「8の字型」「クロスV型」「Ω型」の4案については、具体的な路線ルートと、駅の配置について計画をしている。

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ダブルO型案(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)
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8の字型(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)
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Ω型案(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)
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クロスV型案(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)

なかでも8の字型の案については、もっと詳しい地図が残されている。

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川崎市の山側をぐるりとまわっている(『昭和51年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より

資料では、この8の字型案と、ダブルO型案の2つが有力な案として、それぞれ建設した場合の乗客数予想や、収支予想など、詳細な計算が行われている。

8の字の形に運行する鉄道はプラレールや遊園地のミニトレインではよくみかけるが、実際にその形で営業している鉄道路線は、今ぱっと思いつく限りない(と思う)。したがってもし、完成していれば、日本唯一の8の字運行の鉄道だった可能性もある。

そもそもなんで作ろうと思った?

さて、このモノレール路線、そもそもなぜ作ろうとしたのだろうか。そのまえに、川崎市の鉄道がどうなっているのかを、ざっくり説明しておきたい。

川崎市は、冒頭でも述べたように、上下の幅が狭く、いちばんせまいところだと、直線距離で1.2キロほどしかない。逆に、左右の幅は長く、こちらは直線で33キロほどある。 市役所などが集まっている南側の都心部と、住宅地として開発された北側の丘陵地を直接結ぶ鉄道はない。

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川崎市の鉄道路線図

川崎市内で東西の移動を行う場合は、南北に走る東急線や小田急線などの私鉄路線にいちど乗り、JR南武線に乗り換えしなければならない。
さらに、丘陵部にある住宅地からは、鉄道駅まで距離がある場所が多く、最寄りの駅までバスで行かなければいけないという面倒さもある。

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赤いところが鉄道空白地帯

1963(昭和38)年、まちづくりの基本方針をまとめた『川崎市総合計画書』では、中原区以西の人口増加(当時、丘陵部の宅地開発が進んでいた)に備えて、バス11路線の新設、延長などのほか、将来的に「ふ頭から登戸方面へ至る地下鉄ないしモノレールの建設計画をも検討したい」とモノレールの建設が言及されている。

結局、この東西交通の断絶解消に関しては、モノレールは採用されず、川崎縦貫高速鉄道という地下鉄が計画される。

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「川崎縦貫高速鉄道」計画線(計画廃止当時のもの)

川崎縦貫高速鉄道は、臨海部の塩浜から元住吉を経由し、宮前平、新百合ヶ丘までを結ぶ予定の地下鉄計画だった。しかしながら、この地下鉄計画は細かな計画変更を度々重ね、2018(平成30)年には計画廃止(※1)となった。

(※1)なお、横浜市営地下鉄のブルーラインが、あざみ野から市境を超えてすすき野、王禅寺などを経由して新百合ヶ丘まで延伸する計画がある。完成予定は2030(令和12)年。

バスだけでは不便な地域の市民の足として計画された

さて、件の8の字モノレールである。

川崎市は、1973(昭和48)年『川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書』において、当時、東京大学工学部の教授だった八十島義之助(※2)の指導のもと、基本的な計画をまとめている。

その中でモノレールについては「モノレールは、地区内交通、または幹線高速鉄道の枝線として機能させる。(中略)バスのみでは交通需要の量、質ともにサービスしきれぬおそれがある地域にモノレールを配する」として、川崎市西部の丘陵部地帯に、環状モノレールを建設することを提言している。

(※2)やそしまよしのすけ(1919(大正8)年−1998(平成10)年)東京府出身。鉄道工学、交通計画学を専門とする工学者。父の八十島親徳は渋沢財閥の一番番頭と呼ばれた人物。義之助の妻は、渋沢栄一の孫にあたる。

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当初の計画案は、2つの環状モノレール線を縦貫高速鉄道が結ぶ形からスタートした(『川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書』1973(昭和48)年より)

なお、これらのモノレール計画は、東西を結ぶ縦貫高速鉄道が完成することを前提としている。

モノレール建設の提言を受け、1974(昭和49)年、川崎市の『新総合計画』において、モノレールの建設が「多摩、高津両区における通勤・通学等市民の足確保とともに、区域の一体化を図るための交通機関として、両区内を循環するモノレールの建設を推進する」とされ、実際にモノレール建設の計画が具体的に検討されはじめた。

そして、冒頭で紹介した『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』と『昭和51年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』につながる。

駅、車両のデザインも検討していた

川崎市のモノレール計画はさらに具体的に構想され『昭和55年度都市モノレール計画関連基礎調査書』によると、モノレールの愛称は『タウンライナー』で、イメージカラーは青。ロゴマーク、車両のデザイン、駅デザインなども決めていた。

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跨座式モノレール、多摩モノレールの車両に似ている気がする(『昭和55年度都市モノレール計画関連基礎調査書』より)

タウンライナーのロゴが素朴でいい。車両の方はこれだけではなく、他にも3案ほど提案されている。

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青とクリーム色のデザイン(『昭和55年度都市モノレール計画関連基礎調査書』より)
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色使いが昔の東海道線みたいだ(『昭和55年度都市モノレール計画関連基礎調査書』より)
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窓が屋根まである斬新なデザイン (『昭和55年度都市モノレール計画関連基礎調査書』より)

やはり3つ目の、ポケモンのヒコザルみたいな色使いのモノレールが目を引く。また、駅のデザインもかなり詳細に検討している。

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交差駅の完成予想図(『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』より)

上記のイラストは、8の字の場合、真ん中の線路が交差する予定の駅の完成予想図だ。ちなみに、モノレールが完成しなかった世界線では、こんな風になっている。

なお、交差するといっても、線路で言うところの平面交差で交差するわけではなく、線路はそれぞれ上下に別れており、ホームは別々になっている。同じホームで乗り換え……みたいな小洒落たことはできないようだ。

せっかくなので、駅名をつけたい

さて、これれのルート案で出た設置駅は、番号は振ってあるものの、具体的な駅名までは決まっていない。

せっかくなので、ぼくが勝手に駅名を命名し、現代の路線図風にしてみた。

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 ①駅に関しては、東急は溝の口、JRは溝ノ口となっているので、せっかくだから(なにが?)、モノレール駅は溝口の地名にそって「溝口」で「みぞのくち」駅とし、ややこしさに拍車をかけたい。

溝口の隣の②駅、本来ならば末長とかにすべきかもしれないが、昔の地図をみていると「間際根」という素敵な地名をみつけてしまった。今は横穴墓の古墳名にその名が残っているだけの地名のようだ。

間際根。文字と地図の雰囲気からさっするに、崖と平地の境目(間際)だったのかな、と想像するがどうだろう。

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今昔マップ

このあたりは、開墾された土地が多いためか、末長、久本、千年などの瑞祥地名が多い。それよりも、地形をそのまま表すようなユニークな地名を、ぜひ採用したい。というわけで、②は間際根です。

さて、⑤駅。これは徳持とした。現在でもバス停名として残っている地名だ。古い地図は、文字が潰れてよく見えないが、得持のようにも見える。徳川も、昔は得川と書いたことがあるらしいので、表記ゆれのひとつだろう。

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今昔マップ

かつて、江戸時代から明治にかけて、大田区の旧大森区に徳持村という村があり、現在でも小学校の名前として残っている。おそらくだが、その徳持となんらかの関係があるかもしれない。

徳持という言葉の由来自体は不明だが、鳥取に徳持という名字があるらしいので、そこと何らかの関係があるかもしれないし、ないかもしれない。

本稿は、地名の由来を探るのが目的ではないので、この辺にしておきたいが、こういった「今はそんなに使われてないけれど、確かにある地名」というのを大切にしたいので、⑤は徳持駅としたい。

隣駅、⑥駅は打越という魅力的な地名に惹かれるが、川の対岸っぽいので、野川でがまんする。

交差駅となる⑬駅は、平駅とした。が、ここにはめちゃくちゃいい地名があった。

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今昔マップ

平の下に「日向」、向かい側に「日蔭」がある。日向と日蔭だ。よく見ると、川を挟んで南向きの日当たりの良さそうな斜面に日向、北向きの日当たりが悪そうな斜面に日蔭とある。こんなに由来がわかりやすい地名もおもしろいし、そのままセットで残っていたのもすごい。

ここは、日向駅か日蔭駅かを採用したいところだったが、駅の位置が微妙に違うのと、交差駅のような重要そうな駅が、漢字一文字というあっさりした感じも、それはそれでおもしろいので、平駅とした。

ググーッと進んで、登戸駅の隣⑯駅である。昔の地図をみると「中店」という不思議な地名があるのでこれを採用。

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今昔マップ

 下の田中となにか関係があるようなないような不思議な地名だ。読みは「なかだな」にしたが「なかみせ」の可能性もある。なかみせだと、神社や寺の境内にある店のことになるが、どうだろう。

⑲駅の北浦谷は「きたうらやと」としたい。谷のことを、この辺りでは「やつ」だとか「やと」という。

東京にある「谷」が付く地名は、鶯谷や茗荷谷などをのぞいて、ほとんどが「や」と読む。一方、大阪は「たに」または「だに」と読むことが多い。以上、地名豆知識でした。

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今昔マップ

そして、㉕駅と㉖駅。これは、亀井駅と恩廻駅とした。亀井は、昭和の地図までその地名が載っていたが、明治時代の地図では亀の字が龜だ。
恩廻もオンマウスみたいだが、なかなか渋い地名だ。現在でも公園名として残っている。

㉞駅は、風久保とした。これも由来はまったくわからない。明治時代などの古い地図には現れず、昭和41年の地図に突然あらわれ、また消えるという。現在は公園の名前に残っている地名である。

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今昔マップ

風がつく駅名は、風祭ぐらいしか思いつかないので、神奈川県にもうひとつあってもいいだろう。という気持ちで、風久保にしておきたい。

残りの路線図もつくったのです

すっかり、駅名を決めることに夢中になってしまったが、8の字型だけでなく他のルート案だった場合の路線図も一応作ってみた。が、駅名はそんなに変わらない。

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ダブルO型の場合の路線図
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クロスV型の場合の路線図
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Ω型の場合の路線図

しかし、それにしても、このモノレール計画。ついぞ実現することもなく、人々の記憶から忘れ去られようとしている。

一時は、車両デザインや「タウンライナー」の愛称まで決まったものの、モノレールを設置する空間が不足していること、そして、経営する主体をどうするのかで計画は進まなくなった。

もともと、このモノレールは、縦貫高速鉄道の設置が前提であったため、縦貫高速鉄道の計画が進まなくなると、計画は自然と消滅するのは納得できる。

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みんな忘れないで!(『昭和55年度都市モノレール計画関連基礎調査書』より)

1981(昭和56)年に、一括開通せず、部分開通するよう計画が変更されたが、それ以降、だれもモノレール計画のことを口にはしなくなっていった。

また、住民側から設置を要望するような運動もなかったようで、このモノレール計画は存在自体が忘れられたようになっていった。

忘れられているモノレール計画

今回、この川崎都市モノレール計画を知ったのは、川崎市公文書館で行われていた展示がきっかけだった。
もし、この展示がなければ、こんな楽しいモノレール計画を知ることなく、一生を終えていたかもしれない。

あぶないところであった。

参考資料

『昭和38年 川崎市総合計画書』
『昭和48年 新総合計画』
『川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書』
『昭和51年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』『昭和50年度川崎市都市モノレール計画関連基礎調査報告書』『昭和55年度都市モノレール計画関連基礎調査書』
『“交通空白地”をなくせ!〜幻の川崎モノレール計画』パンフレット

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