国境越えは難しいご時世なので備前、備中、美作の旧国境を越える

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旧国境とは、国家としての境界ではなく明治時代初期以前の律令国の境目だ。

コロナ禍によって、国境どころか県境を越えての移動でさえ、なるべく控えたいご時世である。

今こそ旧国境を越えたい。岡山県内の旧国境を越えた。

備前、備中、美作

現在日本の行政の単位は都道府県であるが、明治時代初期以前は律令国=国が行政の単位であった。(以下、国家としての国と区別するため旧国とする)

都道府県によっては旧国名と現在の県の形ほぼ一致する場合(例:信濃国=長野)があったり、複数の県にまたがる国(武蔵国=埼玉、東京、神奈川)もあるが、僕が住んでいる岡山県は3つの旧国からできており、旧国境には比較的恵まれている。

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太い線は今の県境とほぼ一致する部分で、細い線は純粋な旧国境。南東の備前、西の備中、北東の美作(みまさか)だ。

今でも地元新聞のニュースがこのエリアごとだったり、方言が異なったりしている。

僕は美作エリア出身の友達のおばあさんとしゃべった時、言葉の違いに戸惑ったほどだ。

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岡山県の出先機関である県民局にも「備前」の文字がある。

またこの旧国のエリア分けは上の写真のように岡山県内の行政区分として今でも使われている。

このように備前、備中、美作の3つの旧国名は岡山県民の生活の中に今なお根付いていて、自分が住んでいる場所がこの3つのどれにあたるかは子供でも知っているほどだ。

しかしそれぞれを分ける境界線つまり旧国境がどこにあるかはあまり知られていない気がする。

時節柄、国境を越える旅行は難しいので旧国境を越えて(旧)国外旅行へと出かけよう。

備前と備中の国境は「境目」

僕が住んでいるのは備前エリアなので、まずは備前と備中の旧国境へ向かう。備前と備中の国境は岡山市の中心部から車で30分くらいの場所にある。

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「境目」バス停。

旧国境がなんとなくあの辺だろうとは見当がついていたが、はっきりとはしていなかった。まさか地名に名残があるとは知らなかった。

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真夏の日中だ。日陰がまったくなく暑い。

境目バス停から幹線道路を少し歩くと道の脇に白っぽい石柱が見えてくる。注意して見ないと見逃してしまいそうだ。

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花崗岩でできた石柱に「従是(これより)東備前国」。

この道は何度か通ったことがあったがこの石柱には今まで全然気づかなかった。

旧国境には国家の国境のような壁や入管はないし。県境のような看板もないが、地名や石柱などの痕跡が残っている。

ちなみに市町村合併が繰り返され、このあたり一帯は今は岡山市になっている。岡山市内は備前エリアとなっているので、備前エリアは明治時代以前よりやや広がった格好だ。

両方の国を行き来するから両国橋

旧国境線はこの場所から「吉備の中山」と呼ばれる山へと伸びている。

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複数の山が連なって見える「吉備の中山」。

吉備の中山のふもとには小さな川があり備前と備中の国境の川となっている。  

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水は流れているんだか流れていないんだか。

「国境の川」という言葉がもつ壮大なイメージとは裏腹に、ここには水がほとんど流れていない。

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右の石柱には両国橋とある。

しかし、川にかかっている小さな橋の脇には「両国橋」と刻まれた石碑が建つ。両方の国を行き来する橋だから両国橋。かつて国と国とを結んでいた橋である。

両国橋は全国各地にあるが一番有名な東京の両国橋も武蔵国と下総国の両国を結んでいたことからその名前がついたのだとか。

旧国境は桃太郎のお墓をはんぶんこしていた

さらに国境線をたどりながら吉備の中山を登ると、山頂付近に突如綺麗に手入れされた場所があらわれる。

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聖域という感じ。

これは中山茶臼山古墳という古墳だ。

この中山茶臼山古墳は吉備津彦命(きびつひこのみこと)の墓であるとされている。

吉備津彦命はこのあたりを支配していた温羅を退治し、以後この地域をおさめたといわれている。なお、ずーっと後年に岡山県民はその話が桃太郎の元になったという主張を始めるがそれはまた別の話だ。

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宮内庁が管理していて立入禁止になっている。

吉備津彦命は第7代孝霊天皇の子とされるので、中山茶臼山古墳は宮内庁が管理し立入禁止だ。

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中山茶臼山古墳の正面に埋め込まれた国境石。

そして、中山茶臼山古墳の正面にはこれまた国境石が埋め込まれている。

古代、岡山県の全域と広島県の東部は吉備国(きびのくに)と呼ばれていたが、備前、備中、備後の3か国に分割、さらに備前の北側は美作国に分割される。備前国と備中国の境界線はこの中山茶臼山古墳をはんぶんこにするように定められた。

吉備津彦命は当時の吉備国の人々からものすごく慕われていたことが分かる。

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地元の人も混乱する「吉備津神社」と「吉備津彦神社」

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こちらが吉備津神社。

ちょっと余談ではあるが、そうしてお墓を分け合う形で備前国と備中国との国境を決めたところ、吉備津彦命を祀っていた吉備国の総鎮守だった吉備津神社はぎりぎり備中側なってしまう。

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こちらは吉備津神社。

そこで備前側には吉備津彦命の住んでいた場所に神社を作ってこちらにも吉備津彦命を祀ることにした。当時の吉備国の人々からの慕われっぷりが凄すぎる。

その神社の名前は吉備津神社。一文字しか違わない。

その二つの神社は旧国境(さっきの両国橋)を隔てているものの、車で5分とかからないほどに近い。

吉備津神社は備中の一宮(=最も格が高い神社)で、吉備津彦神社は備前の一宮とされた。

しかし市町村合併の結果、吉備津神社も吉備津彦神社も同じ岡山市になってしまう。名前も似ていて祀っている神様も同じ一宮の神社が岡山市内の、すごく近い距離に2つ存在する結果に。

観光客はもちろんのこと岡山県民でさえ混乱しているややこしい状況は、旧国境をたどれば理由が分かる。

国境があれば争いもある

つづいて国境線を辿り、吉備の中山の反対側へ降りてきた。

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こちら側で国境になっているのはその名も境目川。

このあたりは新興住宅地と工場が立ち並ぶ。なんの変哲もないこの用水路が国境である。

国境の川ならぬ国境の用水路だ。

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川のほとりに石柱。

用水路のほとりに目をやるとこちらにも白い石柱が立っていた。これも旧国境を示している。

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石に添えられた解説の看板。

国境の石の横には看板が設置されていて、この場所で5年間の境界争いが起こったことを伝える。

当時の人々が本気で境界を争ったこの一帯も市町村合併の結果、すべて岡山市だ。

備前、備中、美作の旧国境が交差する場所は

さて、旧国境を辿っているとふと気になることがあった。

岡山県内に備前、備中、美作の3つの国があったので、それらの国境が交わる地点があるばずだ。調べてみるとその三つの国境が交わる場所は、三飛(みとび)という峠にあたるらしい。

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車を走らせて向かいます。

休みの日に早速、三飛峠へと向かう。

しかし情報によると三飛峠に至る道はあまり使われておらず、状態がよくないそうだ。三飛峠までたどり着けない可能性もある。

三飛峠には備前側からと備中側、美作側の3つのルートがあるが、その中でも比較的道路の状態が良いと思われる美作側からのルートで向かう。

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三飛峠の美作側の入り口。

備前側の岡山市に住んでいる僕からはぐるっと回り込むようにして美作側の入り口にやってきた。

行く手にそびえる山はてっぺんが霞んでいる。

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枝が折れて道をふさいでいる。

そして、山に入るとすぐ折れた枝が行く手を阻む。

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枝を退かそうと四苦八苦する僕。

車を降りて枝を脇に寄せて進む。道は自分で切り開かなければならない。

つづらおりの細い道

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ちょっとこれ通れるのか?

山を登り始めるとやはり道はめちゃくちゃ狭く、車が一台ギリギリ通れるかどうかくらいだ。おそらく大きい車は通れない。

ガードレールなんて上等なものは望むべくもないが、木が生えているので真っ逆さまに落ちる事はないだろう。

この狭さのまま山肌にへばりつくように道が続く。もし対向車が来てもすれ違うスペースはなく、ずーーーっと戻らなければならない。

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凄いところまで来たな。

目の前の道にハンドルを合わせることに神経を集中していたが、ふと視線を上げると随分山の奥に入り込んできていた。

ここでタイヤを落としたらJAFは来てくれるのか。まあ来てはくれるだろうが、どれくらい待つんだろうと考えると心細さが緊張感が首元にまとわりつく。

三飛峠に到着

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ついに景色が変わった。

そこから更に長い長い山道をうんざりするほど進む。想像していた2倍くらいの距離を進んだころ、やっと目の前に三叉路が現れた。 

なお結局、対向車は来なかった。

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「落合町栗原」

三叉路に佇む石柱には「落合町栗原」の文字が刻まれている。

落合町とは平成の大合併でもう無くなったが、僕が子供のころにはよく聞く地名だった。なつかしい。すごく古い友人と山の奥で偶然再会したような不思議な感覚だ。

なお落合町は明治時代初期以前は美作国である。

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「加茂川町恩木」

そして正面から左の面には加茂川町恩木。加茂川町も平成の大合併でなくなった。これも懐かしいが、加茂町は備前国だ。

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「有漢町川関」

そしてその反対の面には「有漢町」。有漢町も平成の大合併でもうないが、元は備中国だ。

つまりここが備前、備中、美作の旧三国境である。三つの国に飛んでいけることから三飛峠と呼ばれるらしい。

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備前側に抜ける道。舗装がなくなっている。

噂通り、僕が通ってきたのとは別の道は状態があまり良くなさそうだ。

到着できた感慨よりもここからちゃんと無事に戻れるかという不安と、早く戻りたい気持ちの方が大きく、すぐに帰路についた。

旧国境には今も痕跡が残る

かつて人々を心理的、物理的に押しとどめていた旧国境は、それが取っ払われた後もその痕跡はいたるところに残っていて、その地域の歴史が垣間見えた。

旧国境を巡る旅はいかがだろう。

参考文献

  • おかやま同郷社 おかやま同郷 第35巻 第11号
  • 境目集落の生いたち 境目げんき会

Source

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