6月26日、半導体関連部材の製造を手掛けるJSRは、政府系ファンドの産業革新投資機構(JIC、買収を実施するJICキャピタルも含めJICと記す)による買収に合意したと発表した。今回の買収の背景には、JSRの事業戦略と、わが国の産業政策の方針が一致したことがある。
近年、JSRは半導体部材、バイオ医薬品分野で収益力強化に取り組んできた。ただ、現在の事業規模で環境変化に対応しつつ、設備投資を積み増すのは容易ではない。中期的には世界の株価が下落し、収益環境が不安定化する恐れもある。そうなる前にJSRは投資ファンド傘下に入り、より迅速に事業規模を拡大しようとしている。
日本にとって、JSRは先端分野の需要を取り込むために欠かせない企業の一つだ。特に、半導体は経済から安全保障まで、あらゆる分野で重要性が高まっている。関連する企業の事業運営を産業政策の側面から支援することは、日本の経済成長、安全保障体制に大きく影響する。そうした見解に基づき、政府は民間企業への関与を強めている。今後、日本で成長の加速、経営体力強化などを目指し、類似のケースは増えそうだ。そのためにも、買収成立後、両社が本当に意思決定スピードを速め、業界再編を主導し、先端分野の収益範囲を拡大できるか否かが問われる。
JSRがJIC傘下入りを決めた狙い
6月26日にJSRが公表した資料によると、2022年11月中旬、同社はJICに資本政策に関する協議を打診した。その後、両社は議論を重ねた。その結果、JSRは、JICによる買収による株式の非公開化を選択した。主たる目的は、事業運営の効率性向上にある。近年、JSRは自力で構造改革を加速し、収益の得られる分野を拡大しようとした。2019年、米国出身のエリック・ジョンソン氏が代表取締役最高経営責任者(CEO)に就任した。現在、同氏はJSRの代表取締役CEO兼社長だ。
2021年、同氏の指揮の下で祖業のエラストマー(合成ゴム)事業を売却した。それは、日本の雇用慣行などにとらわれない、海外出身の経営トップだからこそなしえた決断だったとの見方もある。売却資金を用いてJSRは買収戦略などを進め、業界再編につなげようとした。しかし、同社が自力で国内外の株主、提携や買収候補先の企業など、多様な利害を調整することは容易ではなかった。世界的な物価高騰の影響も重なり、エラストマー事業売却後、JSRの収益性は伸び悩んだ。
また、世界経済のデジタル化、台湾問題などの地政学リスクの高まりを背景に世界の半導体関連分野の環境変化は加速化、複雑化し始めた。市況の変化に対応しつつ、設備投資などのリスクを負担することは口で言うほど容易なことではない。万が一、投資のタイミングが遅れれば、JSRにとって台湾積体電路製造(TSMC)などの要請に合わせて、より純度の高い感光材などを供給することは難しくなるかもしれない。そうなると、JSRがフォトレジストなどの半導体関連部材市場で世界トップのシェアを維持することも難しくなる。業績は悪化し、状況によって海外企業に買収される恐れも出てくる。
そうしたリスクに対応するために、上場会社でい続けるよりも、投資ファンドの傘下に入ることは有効な方策と考えられる。利害調整にかかる時間は減り、意思決定は迅速化できるだろう。政府系ファンドの資金力、信用力をバックアップに、買収や投資の資金調達も行いやすくなる可能性がある。
日本の産業政策の方針転換
JSRがJIC傘下入りを決めた要因として、産業政策の影響も大きい。主要先進国の産業政策は、市場原理や民間企業の自由な活動を尊重したものから、必要に応じて政府が市場に介入するものに変化した。特に、半導体など、経済成長や安全保障への影響が増す分野で、日米欧政府は各国企業に補助金を支給し、自国内で生産を増やすよう求め始めた。
2022年5月、日本では「経済施策を一体的に講ずることによる安全保障の確保の推進に関する法律(経済安全保障推進法)」が成立した。趣旨は、国民の安心、安全を守るために、経済や安全保障に大きな影響力を持つ物資の安定供給を実現することにある。そのために財政面からの支援、基幹インフラの審査強化などが行われる。要点は4つある。
まず、重要物資の安定供給に向けた支援が行われる。昨年12月、半導体や蓄電池、重要鉱物資源など11の特定重要物資が指定された。対象分野の企業は設備投資などの計画を政府に提出し、認定されれば助成金が支給される。次に、電気ガス、金融など基幹インフラの安定性、信頼性を高めるために、重要設備の導⼊、維持管理などの委託を事前に審査する。それは、国民生活の安定のための規制、監督の強化に分類できる。3点目に、量⼦技術、人工知能などを念頭に、重要技術の開発支援が行われる。4点目に、特許出願の⾮公開に関する制度も導入する。
また、経済産業省は半導体・デジタル産業戦略検討会議を開催している。世界全体でのデジタル化の加速、半導体など先端分野での米中対立などへの対応力を高めるため、政府は、次世代半導体の製造を目指すラピダスへの補助を発表した。熊本県で工場を建設しているTSMCとソニー、デンソーの合弁企業への助成も行われた。いずれにも共通するのは、半導体など、経済と安全保障の両面に大きく影響する先端分野で、設備投資などのリスクテイクを民間企業任せにすることは適切でない、という考えだ。それは、JSRのように世界トップシェアを誇る半導体部材メーカーにも当てはまる。
類似のケースは増加する可能性
JSRのように、投資ファンドの傘下に入り、意思決定のスピードを引き上げて成長加速を狙う日本の企業は増えそうだ。今回の買収は、かつてのエルピーダメモリのような収益力が低下した企業の救済と異なる。現在、極端紫外線(EUV)に対応した感光材領域、ライフサイエンス分野でJSRの収益は増えている。
ただ、JSRを取り巻く事業環境は徐々に不安定化するだろう。特に、米欧では物価が高止まりし、金融引き締めは長引きそうだ。金利は上昇し、今すぐではないにせよ世界的に株価は下落するだろう。日本の株価もかなり高く見える。展開次第でJSRの業績が不安定化する恐れは否定できない。そうなる前にJSRは投資ファンドの傘下に入り、より迅速に選択と集中を進めたいはずだ。特に、株価が下落した場面はコストを抑えて競合他社を買収し、シェアを拡大する重要な機会になりうる。そのために必要な成長戦略の策定、資金調達などを強化するためにも、投資ファンドのノウハウを活用する意義は大きいだろう。
それによってJSRは業界再編を主導して自社の競争優位性を高め、収益性をさらに引き上げようとしている。それが実現すれはJSRの成長期待は高まる。そうした成果を実現しつつ、JSRは世界の株式市場が上昇する局面をとらえて再上場を目指すだろう。問われるのは、買収が成立した後に、JSRの改革が本当に加速するか否かだ。
企業が成長を実現するために、常に上場会社であることが最善の方策とは限らない。日本で事業運営体制の変革が遅れ、成長期待が高まりづらい企業は多い。今すぐではないにせよ、内外の株価が下落すれば、株主との利害調整に難航する企業も増えるだろう。JSRの発表をきっかけに、高い成長を実現して長期存続を目指すために投資ファンドによる買収を検討する企業は増える可能性が高い。そうした変化が日本の経済成長と安全保障体制の強化につながるためにも、JSR、JIC両社がどのような成長戦略を策定し、実行するかが問われる。
(文=真壁昭夫/多摩大学特別招聘教授)