5月14日は「母の日」だ。普段お世話になっている母にプレゼントする家庭も多いだろう。オーストリアでも数日前から「母の日」へのプレゼントのアイデアについて、いろいろとテレビでコマーシャルが流れていた。プレゼントで最も多いのは「花」という。花屋さんにとって1年で最も忙しい日になるという。
「母の日」にプレゼントされるカーネーション Wikipediaより
ところで、ローマ・カトリック教会にとって5月は「マリア月間」だ。「母の日」が5月の第2週の日曜日ということもあって、キリスト教社会の欧州では聖母マリアこそ女性の永遠の理想像のように受け取られているが、教会の「マリア像」には様々変遷があった。
マリアが“神の子イエスの母親”ということで不動の地位を得ているが、マリアとイエスの母と子の関係は福音書の中でも示唆されているが、決して理想的な関係ではなく、いがみ合いとも思えるようなシーンが記述されている。
ウィーン大学カトリック神学部の新約聖書の専門家、エヴァ・プシャウツ氏は、オーストリア国営放送でのインタビューで、「マリアは何世紀にもわたって、強力な守護者としての役割を担い、戦争などの緊急事態には『防護マントの聖母』として絵画でも描かれている。また、中世から現代にかけて、育み、インスピレーションを与える母親としての立場から、裸の胸で描かれることがよくあった。赤ん坊のイエスに母乳を与えるだけにとどまらず、神秘主義者のベルンハルト・フォン・クレルヴォーは、幻視の中でマリアからミルクを飲んだことで雄弁になったと主張しているほどだ」という。
19世紀には、マリアの「永遠の処女」と「無原罪」が強調されだした。同時に、カトリック教会はマリアを“女性の模範”として築き上げたが、大きな重荷ともなってきた。「イエスが人間であるように、マリアはさらに人間である。われわれは彼女が人間であることを認めるべきだ」という声が出てきた。
聖母マリアを「永遠の処女」と称しているが、新約聖書を読めば、マリアにはイエスのほか、子供がいたことが記述されている。教会の歴史は福音書の記述に対して「兄弟姉妹をいとこたちとかヨセフの最初の結婚の子供たちだった」と解釈したりしてきた。
最近のフェミニスト神学では、聖母マリアとイエスとの関係は容易ではなかったと解釈している。「マルコによる福音書」第3章20節には「身内の者たちはイエスが気が狂ったと思って取り押さえに出てきた」という聖句がある。これは「マリアの家庭」で長男イエスの立場が弱く、メシアの使命を担っていたイエスにとって多くの障害があったことが推測されるものだ。
カトリック教会は聖母マリアを崇拝する一方、女性を聖職者にすることを拒否するなど女性の権利の尊重には消極的だ。ドイツのカトリック運動「マリア2.0」はフランシスコ教皇宛ての公開書簡の中で、「教会は女性を賛美するのが好きだが、女性は教会のどこで自分の才能を発揮できるだろうか。全ては男性たちだけだ。彼らはマリアだけを女性として容認しているのだ。聖母マリアを祭壇から降ろすべきだ。私たちの真っ只中に。私たちと同じ方向を向いている姉妹として」と記述している。
カトリック教会の女性像は時代によって変化していったが、その中で変わらず継承してきた「男尊女卑」の流れは、旧約聖書創世記2章22節の「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り……」から由来していると受け取られている。聖書では「人」は通常「男」を意味し、その「男」(アダム)のあばら骨から女(エバ)を造ったということから、女は男の付属品のように理解されてきた面がある。
「教会の女性像」の確立に中心的役割を果たした人物は古代キリスト教神学者アウレリウス・アウグスティヌス(354~430年)だ。彼は、「女が男の為に子供を産まないとすれば、女はどのような価値があるか」と呟いている。イタリア人教皇レオ1世(390~461年)は「罪なく子供を産んだ女はいない」と主張し、女性が性関係を持ち、子供を産むことで原罪が継承されてきたと指摘している。キリスト教の性モラルはこの時代に既に構築されていった。
女性蔑視の思想は中世時代に入ると、「神学大全」の著者のトーマス・フォン・アクィナス(1225~1274年)に一層明確になる。アクィナスは「女の創造は自然界の失策だ」と言い切っている。スコラ哲学の代表者アクィナスは、「男子の胎児は生まれて40日後に人間となるが、女子の胎児は人間になるまで80日間かかる」と主張しているほどだ。現代のフェミニストが聞けば、真っ赤になって憤慨するような暴言だろう。
女性蔑視の思想を持つキリスト教の中で聖母マリアだけはイエスの母親として特別視されてきた。第255代法王のピウス9世(在位1846~1878年)は1854年、「マリアは胎内の時から原罪から解放されていた」と宣言して、教会の教義(ドグマ)にした。
ポーランド教会では聖母マリアは“第2のキリスト”と崇められているほどだ。キリスト教信者たちは、厳格で裁く父親的神とは好対照として、無条件に許し、愛する母親的存在の聖母マリアを必要とした、という事情もあったはずだ(「なぜ、教会は女性を軽視するか」2013年3月4日参考)。
参考までに、「母の日」といえば、ユダヤ人の名言を思い出す。「神は常に貴方の傍におれないので母を貴方のもとに遣わした」というのだ。神は自身の代身として子のもとに母を使わし、その成長を助けているというわけだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年5月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。