プーチン氏の「ナラティブ」の終焉?

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最近は「加害者」と「犠牲者」が逆転して受けとられるケースが見られる。裁判では「原告」と「被告」が逆転するといったケースはないだろうが、政治的、社会的な現象では結構起きている。問題は、その逆転現象が恣意的に行われる場合は危険だ。同時に、看過できない点は、犠牲者メンタリティの拡大感染だろう。

第78回対独戦勝記念日のモスクワパレード(クレムリン公式サイトから、2023年5月9日)

本題に入る。ロシアのプーチン大統領は昨年2月24日、ウクライナに軍侵攻を命令した時、世界はロシアが侵略者(加害者)であり、ウクライナはその軍事行動の犠牲国だと素早く判断した。その立場は戦争が1年3カ月目に入った現在まで揺るぎがない。一方、加害国のロシアの最高指導者プーチン大統領は9日、モスクワの赤の広場で開かれた第78回対独戦勝記念日の演説で、「わが国は犠牲国だ。西側がわが国を脅かしたからだ。国民は結束して祖国を守らなければならない」と檄を飛ばした。プーチン氏の加害者と犠牲者の区別は世界のそれとは180度違うことが改めて明らかになったのだ。

オーストリア国営放送(ORF)のモスクワ特派員、パウル・クリサイ氏は9日、「プーチン氏はまったく別世界の住人のようだ」と評し、「ロシアのプロパガンダ工作に過ぎない」といって看過できる段階を越え、不気味さすら覚えているようだ。なぜならば、クレムリンの前に集まった8000人余りの軍関係者を前に、プーチン氏は自信をもって語っているからだ。同特派員は、「プーチン氏のパラレルワールド(並行世界)」と呼んでいた。

プーチン氏は、「文明は今日、再び重要な転換点にある。私たちの祖国に対して真の戦争が始まった」と述べ、もはや「特殊軍事作戦」とは表現せずに「戦争」とはっきりと主張し、「西側のエリートは憎しみとロシア恐怖症の種をまきちらし、私たちの国を破壊しようとしているが、私たちは国際的なテロリズムに反撃し、ドンバスの住民を保護し、安全を確保している」と、その実績を強調することを忘れなかった。

モスクワの赤の広場で挙行された軍事パレードは明らかに例年のそれとは異なっていた。もう少し具体的にいえば、小規模だった。パレードには兵員約1万人、戦車や大陸間弾道ミサイル(ICBM)など約125両が参加。モスクワは厳しい防空態勢が敷かれた。

「戦勝記念日」の軍事パレードでは過去、戦車の全隊がモスクワの赤の広場を練り歩いたが、今年のパレードに参加した戦車は、他の軍用車両とともに1両だけでソビエト時代のT-34だった。ちなみに、「この戦車は元々、現在のウクライナの一部であるハリコフの設計事務所によって開発されたものだ」(ORF)。空軍の戦闘機による飛行はなかった。軍事パレートを見物にきていた若いモスクワっ子は「今年はつまらなかった」と述べていたのが印象的だった。

欧州メディアの報道によると、セキュリティリスクが高いため、パレード自体がロシアの他の20以上の都市でキャンセルされたという。クレムリンでのドローン事件の後、モスクワでは「今年はパレードが行われるのか。安全上の理由でキャンセルされるかもしれない」といった囁きが土壇場まで聞かれたほどだ。クレムリン宮殿に向かって2機の国籍不明の無人機が3日未明、突然、上空から現れ、ロシア軍の対空防御システムが起動して撃ち落とした出来事以来、モスクワでは警戒態勢が敷かれている(「キーウの『警告攻撃』か露の「偽旗工作』」2023年5月5日参考)。

9日の「対独戦争勝利記念日」は本来、ナチスドイツに対する勝利を記念する祝いだが、今年はウクライナでのロシア軍の後退という重苦しい雰囲気の中で行われたこともあって、プーチン大統領の口からは新しい軍事計画、戦略などは一切聞かれなかった。西側のロシア専門家たちは「9日のプーチン大統領の演説には新しい内容はまったくなかった」という点で一致している。

ただ、軍事パレートを見るVIP席には、今年はプーチン大統領の他、国賓としてベラルーシ、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギス、ウズベキスタン、アルメニアの旧ソビエト連邦諸国の元首たちの姿が見られた。プーチン氏のメンツがかろうじて保たれたという感じだ。ウクライナに侵略した昨年は外国からの国賓ゲストはゼロだった。

ちなみに、ショルツ独首相は9日、ストラスブールの欧州議会で演説し、プーチン大統領を「権力者である」と非難し、「国家の栄光を夢見て帝国の権力を渇望する修正主義者だ。過去は未来に勝てない」と述べている。

なお、ドイツの高級週刊紙ツァイト(サイト版)で9日、マキシム・キレフ記者は「プーチン体制の亀裂」という見出しの解説記事で、「ウラジミール・プーチンはいつものように西側諸国を侮辱し、ウクライナでの勝利を宣言したが、ロシア国内の不安は日増しに高まってきていることを感じさせた」と分析していた。プーチン氏のパラレルワールドの亀裂だ。

ウクライナはロシアに帰属すると信じ、キーウの解放こそが神の御心と信じる自称正教徒のプーチン氏のナラティブ(物語)にも限界が見えてきた。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年5月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。