『英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語』(小学館・篠塚隆氏と共著)では、エリザベス女王の戴冠式に出席された上皇陛下の話も紹介しているので、その一部だけだが紹介したい。
戦後の皇室は英国の王室によくいえば助けられてきたともいえるが、対等の関係になっているとは思えないことが多いのは、この戴冠式出席のときの英国世論の冷遇に始まっているとも言える。
エリザベス女王の父親であるジョージ六世の戴冠式が1937年5月にあったときは、秩父宮殿下ご夫妻が出席された。
駐英大使は吉田茂だった。盧溝橋事件の二ヶ月前だ。戴冠式ではすべての王侯の中で第一位の席を与えられた。
このあと、フランス、オランダ、スウェーデン、ドイツを回るのだが、ドイツは日本が英国寄りに傾くのを嫌い、大歓待し秩父宮殿下はヒトラーに会いナチスの党大会にも出席された。
終戦後の、1953年には、エリザベス女王の戴冠式があって、こちらは、皇太子殿下(現上皇陛下)が出席された。英国をはじめとする欧州王室との関係を修復したいということだけでなく、皇太子の国際化教育という意味もあった。
アメリカ人のバイニング夫人が家庭教師を務めたことについて、保守派の人たちから批判もあるが、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という意向があり、日本人では伝統的でない教育をしようとすると、抵抗にあい、それを排除できるのは外国人でなくてはダメという日本的な事情もあった。バイニング夫人とは昭和天皇も、吉田首相も教育方針につい綿密に相談をしており、GHQに押しつけられたというのは間違いだ。
ただ、社交的な会話を教えるのことはバイニング夫人には苦手だったようで、あわてて勉強して頂くことになった。
いずれにせよ、未来の天皇としての教育の集大成として、この戴冠式への出席と欧米歴訪は絶好のチャンスだったので、学業を犠牲にしても長期間の旅行が実行され、結果、上皇陛下は聴講生となられたので、学習院を中退されたことになっている。
若い皇太子に徐々に環境に慣れてもらうためにも、3月20日に横浜を出港し船の旅となった。ハワイなどを経由し、カナダで英国の流儀になれてもらった。ニューヨークを出航したクイーン・エリザベス号は、4月28日、サザンプトンに入港し、船内で簡単な記者会見が行われたが、殿下はステートメントを英語で無難にこなされた。
だが、英国内では反日気分が高まり、滞在予定のいくつかはキャンセルになったし、マスコミの攻撃も激しかったが、チャーチル首相が一計を案じて午餐会を開き、そこにうるさ型のマスコミ幹部を集め、独特のユーモアで英国流の立憲君主制の奨めを皇太子に話し、巧妙にマスコミ論調のガス抜きをしてくれた。
女王夫妻との会見は5月5日に行われ、天皇陛下の「ご沙汰」と夫妻の謝辞が交換された。英国側では反日世論をなだめるためにも、王室も積極的に歓迎しているところをみせた。
また、6月6日のダービー観戦では、皇太子殿下が日本にいるときから希望されたものだったが、第一レースが終わったところで女王から使者が来て、ロイヤル・ボックスで第二レースを一緒に見ることを誘われた。英王室が絵になる日英友好の場面を作ってくれたということだ。最初から貴賓席でとかあり得ない時代で、こういう屈辱的な扱いで我慢せざるをえない時代であった。
当時としては仕方なかったのだろうが、この戦後、日英の上下関係みたいなものの影をなおひきずっているのが気になる。
その後、一行はフランス、スペイン、イタリア、オランダ、西ドイツ、ノルウェー、スウェーデンを経てアメリカに向かった。
このあと、皇太子殿下の英国留学が話題になったが、困難ということになり、1968年の三笠宮寛仁親王のオックスフォード留学が戦後の皇族の英国留学の始まりとなった。
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