どんなに当たり前でも、それを言うのはいつも駅長
今回の記事はタイトルのとおりである。「駅の掲示はぜんぶ駅長名義」。
なんだか細かいはなしで恐縮なのだが、つまり、駅から客への個人名義の張り紙があったなら、それはほぼぜんぶ駅長名義なのだ。たとえば右の写真の「扉は押して開けて下さい」。別に駅長が言わなくてもいいだろう。でもそれを言うのはつねに駅長なのだ。係長とかではない。
駅員時代から時を重ねてやっと掴んだ駅長の座(知らないけど)。そんな最高責任者に言わせるのはちょっとどうかと思うような張り紙を見て回りました。
※2008年2月に掲載された記事を、AIにより画像を拡大して加筆修正のうえ再掲載しました。
正しい張り紙ってこんなの
軸を正常に合わせて置くために、まずはふつうの張り紙を見ておきたい。それはたとえばこんなのだ。
由緒ただしいふつうの掲示。なんの違和感もない、というよりほとんど目にもとめず通り過ぎてしまうだろう。
それは他の人にまかせてもいいのでは
それに対してこんな掲示はどうか。
駅長、トイレの掃除もやってたのか。そんなことを思わせる張り紙である。終電後、だれもいなくなった駅のトイレでお弁当の空き箱とかのゴミを発見したのかもしれない。ワープロで原稿を書き、自分で貼って回る。なんだか不憫な駅長の姿が目にうかぶようだ。
あるいはこれはどうか。
なるほど、エスカレーターが点検などで使えないときに置くためのものなのだろう。それは分かる。でもその責を上野駅長が一身に負う必要はないんじゃないか。
たとえば駅長を社長に置き換えて考えてみて欲しい。エレベーターが止まってることを社長名で知らせる社長はいない。なぜならそんなことはふつう他の人に任せるからだ。でも駅長は任せない。まめな駅長はえらい。
いや、そういう結論じゃない。
偉そうなのと腰が低いのが混在する問題
すべてが駅長名義なことにより、駅長の人格がやや乖離的になる問題も散見される。たとえばJR五反田駅。
工事中で不便をかけることをお詫びする丁寧な駅長と思いきや、
とつぜん口調を変えて人々に命令をはじめるような一面もある。
これもやはり、駅では駅長がすべてのことを言うからこそ生まれる問題なのだろう。母親のやさしさと父親のきびしさを同時に体現しなきゃならない片親問題にも通じるのかもしれない。いや、ちがうか。
駅長の心配りはどれだけ細やかなんだ問題
一方で、駅長の細やかすぎる気配りが逆に違和感を生んでしまっている例もあるのだった。たとえば冒頭であげたこれ。
おそらく、押すのか引くのか分かりにくい構造の扉なんだろう。だから「押すんだよ」と教えてくれている。それは分かる。分かるのだが、でもわざわざ駅長名で教えてくれなくていい。ただ「押す」と書いてくれればいいのではないか。
同様にこの例をみてほしい。
「きっぷがないと入場できません」、「乗車前にきっぷを買ってください」。
これは通常お客さんにお願いする内容ではない。あれをしてはいけない、これをしてはいけないというようなメッセージをつきぬけて、ついに「ふつうの電車の乗り方」を強く訴えるにいたった品川駅長。
キセルなどの横行に心をいためたのだろうか。あまりにも細やかな気配りである。
駅長の力ない声
一日に何万人という人が利用する駅の長でありながら、その声にあまり力がないという例もある。まずは新橋駅で見かけたつぎの張り紙。
おそらくその改札だけ目につきにくい場所にあるのだろう。半ばあきらめぎみに、みんなもたまには汐留改札のことを思い出してやってほしい、という駅長の親心に目頭があつくなる。
そして次は駒込駅でみかけたもの。文章の左下に何かが見えている。
位置的に「駅長」と書いてあるのだろうか。そう思って近づいてみた。
駅長はいた。いたのだが、ビニールテープに囲まれて一部しか見えない。雨の日の客にメッセージを伝えたいという駅長の心遣い。そして雨の日だからこそ必要なテープの補強によって、肝心の自分の名前が消えてしまっているのだ。なんという切ないパラドックスだろうか。
社員名義の掲示も見てみたい
やっぱりなんでもかんでも駅長名義で掲示をだすのはよくないのかもしれない。たとえばもっと違う名義の張り紙があったらどうだろう。
「かけこみ乗車はやめてください 車掌」
「私鉄の最終電車とは接続していません 運転手」
たんなる標語として「かけこみ乗車禁止」と掲示するより、もっと生き生きとした現場の意思としてメッセージが伝わってこないだろうか。そんな張り紙があればぜひ見てみたいと思う今日このごろです。