岡山県東部の備前市に位置する伊部(いんべ)地区は、備前焼の窯元が集まる陶器の生産地だ。
中世末期から近世にかけて操業していた古い窯跡があるというので見に行ってみたら、陶片が文字通り山積みになっていて驚いた。
備前焼の里「伊部」を歩く
先日中国地方を旅行したのだが、その帰りに少し時間があったので伊部に寄ってみることにした。
以前から備前焼のタンブラーが欲しいと思っていたので、どうせならその生産地に行ってみようと思ったのだ。
窯元の煙突が立ち、備前焼のお店がズラリと並ぶ町並みは独特だ。茅葺屋根など古い家屋もちらほら見られ、ショーウインドウの作品を眺めながらの散策が楽しい町である。
「伊部南大窯跡」が想像以上に凄かった
さて、ここからが本題である。現在も素朴な味わいが人気の備前焼であるが、その歴史はとても古く、平安時代の末期から伊部の周辺で焼き続けられてきた。
山に囲まれた伊部は原料である粘土、燃料として必要な薪を手に入れやすく、また登り窯を作る斜面も多い。まさに陶器の生産にうってつけの土地柄なのである。
故に、伊部の山裾には古い窯の跡が数多く残されており、そのうち「伊部南大窯跡」「伊部西大窯跡」「伊部北大窯跡」「医王山窯跡」の四ヶ所が『備前陶器窯跡』として国の史跡に指定されている。
せっかく伊部に来たのだから、それらの窯跡も巡ってみたい。まずは伊部駅にほど近い「伊部南大窯跡」を見に行ったのが、そこで待ち受けていた光景に私はいきなり打ちのめされた。
遠目では砂利置き場のように見えた小山であるが、近づいてみると、こんもりと凹凸のある地形に無数の陶片が散乱しているではないか。
想像を遥かに超えた荒々しくもダイナミックな光景に、私は目を剥いた次第である。
かつてこの「伊部南大窯跡」には、半地下式でトンネル状の大窯が複数存在した。現在はトンネル部分の天井が落ちて溝となり、左右の壁面が土盛りとして残っているという状態である。
なお、窯と窯の間には「物原(ものはら)」と呼ばれる小山が築かれている。 これは焼成に失敗した不良品や、匣鉢(さや)と呼ばれる窯道具を捨てていた場所で、その陶片がうず高く積み上がって山のようになっているのだ。
いやはや、まさに圧巻。見渡す限りの陶片である。不良品だけでも山になる量なのだから、この窯でどれだけ大量の備前焼が生産されていたのか、なんとなく理解ができるというものである。
なんでも大窯が操業していた当時は1回の焼成で約60トンの薪を使い、約35000個もの製品を一ヶ月強かけて焼いていたという。徳利やすり鉢、甕や皿といった日用品が多かったようだ。
なお、前述の通りこの窯跡の一帯は国の史跡に指定されている。窯跡を掘ったり、陶片を持ち帰ったりすると、文化財保護法違反で処罰されますので絶対におやめください。
他の窯跡も見てみよう
「伊部南大窯跡」だけでも想像以上に見ごたえがあって楽しめたのだが、いちおう他の窯跡も押さえておこう。
国指定の史跡に足を運んでみると、草木に覆われたままの原っぱだったりするのはよくあることだ。特に比較的新しい指定のものであればなおさらである。
今回の『備前陶器窯跡』では「伊部南大窯跡」が昭和34年(1959年)の指定なのに対し、「伊部西大窯跡」と「伊部北大窯跡」は平成21年(2009年)、「医王山窯跡」は平成30年(2018年)の追加指定である。
――ということもあって、「伊部南大窯跡」とそれ以外では整備の状況に差があるのだろう。「医王山窯跡」にいたっては場所的に私有地の山中と思わるので、今回は訪れることができなかった。今後に期待したいところである。
陶片に思い知らされた備前焼の歴史
というワケで、今回は「伊部南大窯跡」を中心に、備前焼の里「伊部」について紹介させていただいた。
素朴な味わいの備前焼は茶の湯が発展した安土桃山時代から江戸時代初期にかけて最盛期を迎えたとのことで、その頃は数多くの窯があり、斜面のあちらこちらから煙が立ち上っていたことだろう。
今に残る窯跡から伊部の歴史に思いを馳せつつ、備前焼のタンブラーで呑むチューハイはうまいものですな。