米連邦通信委員会(FCC)は2022年4月、救急や消防、警察への通報に用いられる携帯電話の緊急発信において、2Dの位置情報(緯度・経度)に加えて、新たに高さの情報(垂直情報)を通知することを義務化した。これにより、米国の通信事業者が取り扱う携帯電話は、都市部など対象エリアにおいて警察や消防へ緊急通報を行う場合、水平位置情報に加えて高さの情報も自動的に発信することになる。
携帯電話の緊急発信とは、iPhoneの電源オフ画面に表示される緊急SOSや、Androidの緊急通報機能による発信で、端末のロックがかかった状態であっても警察や消防へ発信を行える。従来はこの発信の際に、スマートフォンがGPSなどで取得した緯度・経度しか送信されなかったが、今回の措置により垂直情報も含めることになった。
この垂直情報通知の義務化は、ビルや集合住宅において非常事態が発生した場合に2D位置情報だけの通報では発生箇所の特定が困難であったり、急行した階が違っていたために対処が遅れたりするケースを少しでも減らすべきという考え方が背景にある。
とは言っても、測位衛星の電波は微弱なため、屋内において良好に受信するのは難しく、高さを高精度に割り出すことはできない。かといってWi-Fi測位やビーコン測位など既存の屋内測位技術の精度もそれほど高くはないことに加えて、あらかじめアクセスポイントやビーコン端末を屋内に設置するといった下準備が必要となるため、広範囲で使うのは難しい。
そこで注目されているのが、既存のスマートフォンを使って建物内のフロア位置を高精度で特定する「垂直測位サービス」だ。これは、気圧センサーを内蔵した「基準点」を街中の複数箇所に設置し、スマートフォンに内蔵されている気圧センサー情報と近隣の基準点気圧情報を比較分析することで、リアルタイムで高精度な垂直情報を取得できるようにするサービスである。
誤差3m――FCC基準をクリアした唯一の垂直測位サービス「Pinnacle」
垂直測位サービスの中でも米国において特に評価が高いのが、米NextNavが提供する「Pinnacle」だ。同サービスは、CITA(無線通信業界団体)およびFCCを代理して組織された「911 Location Test Bed」が行った検証によると、FCCが基準として定めている「80%の確率で誤差3m」という基準をクリアした唯一のサービスだという。
オフィスビルの1フロアの高さは2.4~4m程度なので、誤差3mならばほぼ1フロア以内の誤差に収まる計算となる。NextNavは携帯電話サービスを展開するAT&Tを通じて、2021年3月から全米4400都市において緊急通報にPinnacleを提供しており、提供エリアのうち3階建以上の建物の約90%をカバーしている。また、警察や消防、緊急医療サービスなどに使われている公共安全の専用ネットワーク「FirstNet」でも、位置把握ソリューションにPInnacleを採用している。
このPinnacleがこのたび、日本においても提供されることになった。提供するのは2019年に創業したMetCom株式会社で、今年10月より東京と大阪の2エリアで垂直測位サービスを展開する。すでに昨年秋にベータ版サービスを開始しており、Android/iOS向けのSDK(ソフトウェア開発キット)を提供中だ。
なお、NextNavはMetComの株主の1つではあるが、両社は親会社と子会社という関係ではない。MetComは特定の企業グループには属さない独立した日本のスタートアップ企業であり、NextNavのほかにも京セラコミュニケーションシステム株式会社、ソニーネットワークコミュニケーションズ株式会社、セコム株式会社、サン電子株式会社、DRONE FUNDが出資している。
気圧センサーの情報を比較分析し、クラウドでリアルタイムに高さを推計
Pinnacleの仕組みは、通信機能を搭載した気圧センサーを、気圧の基準点として提供エリア内の複数箇所に配置して、それらの気圧データをクラウドに収集し、スマートフォンや端末に内蔵された気圧センサーの情報を近隣の基準点気圧情報とネットワーク経由で比較分析することによってリアルタイムに高さを推計するというものだ。
米国ではNextNavのほかにも米Polaris Wirelessが気圧センサーを活用した垂直測位サービスを提供しているが、こちらは前述したテストにおいてFCCの基準を満たすことはできなかった。Pinnacleの垂直測位の精度がほかのサービスに比べて優れている理由はどこにあるのだろうか。MetComの荒木勤氏は以下のように語る。
「気圧は時とともに絶えず変化しています。雨の日と晴れの日では大きく異なるし、1日の中でも大きく変動します。Pinnacleが優れている点は、この気圧の経時変動によるブレを吸収して平準化するアルゴリズムにあり、この技術は特許を取得しています。」(荒木氏)
ちなみに気圧はビルの屋内と屋外でも変わるが、その点も考慮して補正が行われており、より高精度に高さを推計できるように日々アルゴリズムが改良されているとのことだ。
Pinnacleで使用する基準点のデバイスは、ビルなどの屋外上部に設置される。東京と大阪で設置される基地局の数がどれくらいなのかは非公開とのことだが、数kmおきくらいに配置されるという。なお、Pinnacleの基地局は、MetComに出資している企業の基地局を共用するかたちで設置される。
垂直方向の移動も正確にトラッキング、位置情報SNSや人流マーケティングなど活用へ期待
昨年秋にスタートしたベータ版サービスでは、すでに多くの企業がPinnacleのSDKの試用を開始しているという。例えば、日本電気通信システム株式会社が作成したアプリでは、エレベーターで高さ方向に移動する際の軌跡が描かれている。このようにPinnacleを使えば、一般的な地図アプリでは難しい、フロアをまたいだ上下の移動を可視化することができる。
MetComはPinnacleのユースケースとして、前述した緊急通報の位置情報提供に加えて、ビルの屋内ナビやメンテナンス作業の効率化、建築現場の確認、乗換案内、ゲーム、位置情報SNS、健康アプリなどを挙げている。また、カーナビアプリにおいて高速道路と下道を判別するような場合にも活用できるだろう。さらに、人流解析の分野への活用も期待されている。
「匿名化されたスマホの位置情報データをマーケティングデータとして使用する場合、従来であれば2Dの位置情報しか分からなかったたのに対して、Pinnacleを使えば、例えばデパートに入った人が地下の食品売り場で惣菜を買ったのか、3階の婦人服売り場に行ったのか、6階の紳士服売り場に行ったのか、そういったことを可視化することが可能となり、マーケティングデータの価値が向上することが期待されます。」(荒木氏)
すでに位置情報ビッグデータを扱ういくつかの企業がPinnacleの採用を検討しており、10月の正式サービス開始後にはPinnacleの技術を使ったアプリが登場する可能性がある。
なお、日本においては、携帯電話の緊急通報で高さ情報の通知が義務化される動きは今のところ見られないが、荒木氏は以下のように語る。
「救急隊員の迅速な駆け付けは国境を越える共通の社会課題なので、米国事例も参考にしながら制度検討や運用の変化が起きてくるものと考えております。弊社としても、米国事例について正しい情報提供を適切にさせていただき、日本における高さ情報通知についても実現に向けた働きかけをしてまいります。」(荒木氏)
もう1つの可能性として、荒木氏は“デジタルツイン”への活用も提案している。荒木氏は、国土交通省が推進するデジタルツインに向けた3D都市モデルの整備プロジェクト「Project PLATEAU」のイベント(8月6日開催)のライトニングトークに登壇し、「PLATEAUとMetComの良い関係」と題した発表を行った。
Pinnacleを利用することで、PLATEAUの3D都市モデルデータを可視化したバーチャル空間の中に人や物を、高さ情報を含めて高精度にプロットすることが可能となり、例えば防災分野では、ビルの中における自分の現在地をもとに、その人に合った避難指示を出せるようになるとしている。また、高さ要素を加えた3次元スタンプラリーや、3次元の軌跡アートなど、ゲームやエンターテインメント、アートにも活用できる。
さらに、Pinnacleを利用することで建物のフロア情報をPLATEAUのデータへフィードバックすることも可能となるという。
「3D都市モデルデータについては、いかに効率よく更新するかが課題となっています。Pinnacleによって位置情報ビッグデータに垂直情報が追加されれば、高さを含めた位置情報をPLATEAUのデータと照合することで、PLATEAUデータの更新やメンテナンス作業を効率化することができます。例えば『この建物は○階までしかないはずなのに、存在しないはずの上階で位置情報が取得されている』と矛盾を見つけられるので、建物が建て替えられた可能性があることが分かります。」(荒木氏)
ゲームから人流マーケティングやデジタルツインまで幅広い分野で活用が期待されるPinnacleは、10月に東京と大阪の2エリアで提供開始し、2023年には東名阪および全国政令指定都市でも展開する予定だ。
※次回 『電波強度がGPSの10万倍、GNSSの弱点を補う「MBS」とは? 屋内外シームレスに測位できる“地上波システム”構築へ』 に続く(9月28日掲載予定)
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