寬仁親王殿下十年式年祭と信子妃の不在

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昭和天皇の甥である寬仁親王殿下が薨去されて10年となった6日に、文京区の豊島岡墓地で十年式年祭の「墓所祭」が営まれ、母親の三笠宮妃百合子さま、長女の彬子さまらが参列されたが、信子妃の姿はなかった。

NHKより

ご体調が悪いのかといえば、信子さまは、9日、香川県の直島を訪れ「瀬戸内国際芸術祭」の作品を鑑賞されたと報道されているから、そういうわけでない。

宮家の当主である殿下が薨去されたら、妻である妃殿下が当主になるのが通例だが、殿下の生前から別居されていたこともあって、彬子様が当主にという声もあったが、結論が出ず、1年ほどして、寬仁親王の父君である三笠宮殿下を当主とする本家に、信子妃殿下、彬子女王殿下、瑶子女王殿下の3方が入られた。

その後、殿下が薨去されたので、いまは、百合子妃殿下がご当主である。皇室については、秋篠宮家だけは、誰もがあることないこと言ってもよいマスコミの内規があるらしいが、一方で、ほかの方々については、事実の報道も健全な意見の表明も避けるのが通例で、アンバランスもいいところである。

敬意は払いつつも、報道や意見の表明ができないのでは、ロイヤル・ファミリーと君主制の健全性は維持できないはずだ。

そこで、ここでは、『家系図でわかる 日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて』(清談社)から、三笠宮家とその分家の高円宮家について書いたことの一部を抜粋して紹介する。

三笠宮崇仁殿下(1915~2016)は、陸軍で中国に派遣され、「若杉」という偽名で活動され、日本軍の軍紀がひどく乱れているのを嘆かれた。五人のお子さまに恵まれ、100歳まで長寿を誇られたが、2016年に亡くなった。

妃殿下の百合子さま(1923年~)の実家は、河内国丹南藩一万石高木家という子爵だが、母は昭和天皇の侍従長だった入江相政は邦子の姉である。

三笠宮家は蓄財が不十分なまま終戦となり、子だくさんだったので経済的に恵まれず、苦労された。

三笠宮家の次男・桂宮宜仁親王(1948~2014)は、NHKで勤務されたこともあるが、健康に問題があったらしく、公務にもあまり登場されなかった。自宅で倒れて意識不明で発見され、急性硬膜下血腫と診断された。リハビリに努められたが、2014年に亡くなられた。詳細はよく分からない。

三男の高円宮殿下(1954~2002)は、文化活動に熱心に取り組まれ、国民的な人気も上々だった。しかし、殿下は47歳のとき、オーストラリア大使館でスカッシュを楽しまれているときに心筋梗塞で倒れられ急死された。その後、妃殿下は、東京五輪誘致のためのIOC総会で英語とフランス語でスピーチされ話題になった。

長女の承子さま(1986~)は独身だが、ネットでの投稿が不適切と話題になったことがある。

次女の典子さま(1988~)は、学習院大学文学部心理学科を卒業され、2014年に、出雲大社の権宮司の千家国麿氏と結婚された。

三女の絢子さま(1990~)は、経済産業官僚の息子で日本郵船につとめる守谷慧との結婚は、パーフェクト婚ということで国民から歓迎された。

長女である甯子さま(1944~)は、細川護照元首相の弟の近衛忠煇氏と結婚された(1966年)。二度のジュネーブ勤務を経て、国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)の会長を2009~2013年まで勤めた。

次女である容子さま(1951~)は、裏千家の若宗匠と結婚した(第16代千宗室)。

長男の寛仁親王(1946~2021)は、「ひげの殿下」として知られていた。やんちゃで、オックスフォード大学留学後、ラジオのパーソナリティもつとめた。「皇籍離脱宣言」をして昭和天皇から苦言を呈されたこともある。

皇室典範改正に反対を示唆されたことに朝日新聞が社説で「寛仁さま発言はもう控えては」と書いた。最終決定は国会と政府の問題である一方、利害関係者である皇室の方々の意見を聞くのは当然だし、その対象は天皇陛下だけは、皇室の伝統にも反しており、殿下の不満は当然ののことだった。

言論の自由が皇族にもあるのか否かは、いかなる公的なポストにある者も、それに応じた制約は受けるべきだし、皇族方もそれぞれの立場に応じた範囲で制限されるが、天皇陛下や皇太子殿下などより普通の宮さまは、制約は少なくてよいはずだ。

寛仁親王妃である信子さま(1955~)は、麻生太郎元首相の妹で、聖心女子学院中等科からイギリスに留学され、松濤幼稚園(堀内詔子前ワクチン相の祖母が創立)に英語講師として勤めていた。16歳のときに殿下から求婚され、26歳で結婚された。2004年に一過性脳虚血の発作で倒れられてからは軽井沢で療養され、殿下の晩年は東京に戻られたものの別居されてた。

長女の彬子さま(1981~)は、学習院大学文学部史学科を卒業ののちオックスフォード大学マートン・カレッジに留学して博士号をとられた。帰国後は京都にも本拠をもたれて日本文化の研究や普及事業に貢献されている。

次女の瑶子さま(1983~)は、学習院女子大学国際文化交流学部日本文化学科で学ばれた。日本赤十字社で常勤で勤務されたことがあり、女性皇族として史上初のことである。剣道が得意。

三笠宮家当主の座については、百合子妃殿下もご高齢なので、いずれは、信子様か彬子様かどちらが継がれるかという問題が残る。

眞子さまのお相手は極端だったので、結婚は歓迎できなかったが、一般社会における結婚などをめぐる考え方も変化しているのだから、問題が起きてから対処するのでなく、あらかじめ、さまざまな状況を想定し、ご当人たちに選択の幅を差し上げることは、必要だと思う。

もともと、殿下の一途な思いで少々、無理な結婚だったような気もするが、制度の不備も、両殿下や娘の女王様たちを悩ませることになったのだと思う。