神に祈り、戦地に向かう兵士たち

アゴラ 言論プラットフォーム

ウクライナで戦闘の煙が上がってきた。ウクライナ政府軍は同国東部の親ロ武装勢力が最初に攻撃をしかけたと主張し、新ロ武装勢力はウクライナ政府軍が射撃した、停戦合意のミンスク協定に違反していると相手側を非難する。2014年以来、既に8年間余り、ウクライナ東部では政府軍と親ロ武装勢力の間で紛争が繰り返されてきた。その結果、200万人以上の国内避難民が生まれ、1万4000人以上が犠牲となった。そして今、再び戦いを始めようとしている。

ロシア正教会最高指導者キリル1世(モスクワ総主教)ウィキペディアから(編集部)

ロシアもウクライナも多数の国民は東方正教圏に属し、世俗化が激しい欧米諸国のキリスト教徒とは違い、両国には熱心な正教徒が多い。具体的にはロシア正教徒であり、ウクライナ正教徒だ。両正教会は指導部レベルではいがみ合っている。ウクライナ正教会は2018年、ロシア正教会から離脱し、独立した。両国正教会指導部は国の政治情勢を強く反映している(「正教徒プーチン氏の『戦争と平和』」2022年2月14日参考)。

ただ、両国国民の声を拾うと、国民同士は決して戦っていない。ウクライナ国民の中にはモスクワに親戚がいる人が少なくない。モスクワ市民の1人が、「戦争は嫌だ。なぜ戦わなければならないのか」とドイツ民間放送のインタビューに答えていた。キエフ市民もその点では大きな違いはないだろう。なぜ、戦うのか?

ウクライナ危機が叫ばれてから、ウクライナとロシアの正教会の動きをフォローしてきた。彼らは自国民の信者たちの加護を神に祈る。軍事大国ロシアに囲まれたウクライナではその点、もっと深刻だ。もちろん、モスクワでは、キリル総主教ら正教会の指導者たちはロシア軍の安全を祈っているだろう。両国の宗教指導者は戦いで勝利するために自国兵士を激励し、国民に連帯を呼びかけている。そして教会の祭壇の前で祈っている。

その姿を見ていると、プロサッカー選手やボクサーの試合前の姿と重なる。プロサッカーでは試合前やゴールをした時など天に向かって祈る選手を見かける。プロボクシングの場合もそうだ。リングに上がる前に短く祈るボクサーたちがいる。相手を倒して勝利するためだ。負傷せずにプレーできるために祈るサッカー選手もいる。たとえ、それが一種の儀式であっても、戦地に向かう兵士のように、選手たちは祈らざるを得ないのだ。

ここでシンプルな問題が出てくる。両チームに神に祈る選手がいるとする。神はどちらの祈りに耳を傾けるかだ。サッカー試合では同点で引き分け試合が結構多い。双方が得点1を得る。非常に公平で民主的かもしれない。その一方、はっきりと勝敗が分かれることがある。問題は、双方が神に祈り、双方が勝利を願っている場合だ。ひょっとしたら、今回のウクライナとロシアの状況かも知れない。読者の皆さんが神の立場ならば、どちらに軍配を挙げるだろうか。

東方正教会の精神的指導者の立場にあるコンスタンチノーブル総主教庁(トルコのイスタンブール)は2018年10月11日、ロシア正教会の管轄下にあったウクライナ正教会の独立を承認した。ウクライナのポロシェンコ大統領(当時)は、「悪に対する善の勝利だ」と称賛した。

ウクライナ正教会の独立が「悪に対する善の勝利」だろうか。この場合、「悪」とは第1にはロシア正教会を意味するが、それよりロシア正教会を政権掌握の手段に利用してきたロシアのプーチン大統領を指すと受け取るのが妥当だろう。

ウクライナ正教会がロシア正教会から独立を勝ち得たことで、クリミア半島を奪ったプーチン氏にしっぺ返しした、という意味から、ポロシェンコ大統領は「悪に対して善が勝利した」という表現となったのだろう(「ウクライナ正教会の独立は『善の勝利』か」2018年10月15日参考)。

政治的観点からいえば、クリミア半島を併合したプーチン・ロシア側は「侵略者」であり、戦争を最初に仕掛けたという意味で「悪」の立場かもしれない。一方、ウクライナ正教会がロシア正教会から独立を勝ち得たことが「悪に対する善の勝利」であろうか。はっきりと「そうだ」とはいえない。「政治の世界」は国益を重視し、多くの領土や物質、経済的利益を得た側が勝利者だが、「宗教の世界」はそうとはいえないからだ。許し、愛し、団結せよ、ではないが、宗教は統合、連帯、援助を重視するからだ。

ロシア正教会から「ウクライナの国民の為にも祈りを捧げた」というニュースはまだ流れてこない。仕方がないかもしれないが、「ウクライナ危機を回避するためにプーチン大統領に談判した」と聞かないことは残念だ。宗教者として、戦争が始まろうとしている時、沈黙はできない。ましては戦争を鼓舞することはできない。戦争を回避するために全力を投入するのが宗教者の使命だからだ。

欧州でナチス・ドイツ軍が欧州各地を占領し、ユダヤ人を虐殺していた時、「ローマ教皇ピウス12世(在位1939~58年)は何をしていたのか」と、今なお一部の学者たちから追及の声が挙がっている。宗教指導者は戦争時にどのようなメッセージを発するかが問われるのだ。同じことがロシア正教会とウクライナ正教会の指導者たちにも当てはまる。

戦争には「善」も「悪」もない、全ての戦いは「悪」だ、とは思わない、「善の戦争」もある。ただ、ウクライナ危機での戦いでは、どちらが善、どちらが悪とは言えない。正教徒の国同士が戦う戦争に善悪の戦いなどない。戦争を回避できなかったとすれば、双方が敗者だ。

世界の政治指導者が「戦争は我々の仕事だ。宗教者は口を閉じ、祭壇でわが国の兵士の勝利のために祈ってくれればいい」というかもしれない。その時、世界の宗教者は沈黙していてはいけない。神に祈り、戦地に向かう兵士たちの切ない声に耳を傾けるべきだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年2月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。