古代の先達たちの洞察力に学ぶ

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筆者はかねがね、エネルギー・環境などの政策に関しては、科学的・技術的・論理的思考の重要さと有用性を強調してきたが、一方で、科学・技術が万能だとは思っておらず、科学や技術が人間にもたらす「結果」に関しては、楽観視していない。現に、科学・技術開発の最も大きな推進力である「戦争」の惨禍は人類の歴史を通じて絶えることがなかったし、これからの科学・技術の進歩が果たして人間に幸福をもたらし得るのか、楽観的な見通しは今のところ全く出来ないと思う。

これに関して、古代ギリシャの哲人プラトンは「パイドロス」という作品の中で、極めて興味深い発言を行っている。曰く、「技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判別する人とは、別の者なのだ。」と(プラトン全集第5巻、pp.255、岩波書店)。

これを読んだとき、筆者は思わずドッキリした。現代で、工学を専門として技術開発に勤しむ人間には、その技術を評価することは出来ないのか・・?いや確かに、特定の技術に専念する人間は、往々にしてその技術だけを大切に思い、擁護しがちではないのか?「専門家」は往々にしてウソを言う。科学・技術はウソをつかないが、科学者・技術者はウソをつく・・・。当時の科学・技術的発展段階を考えると、驚くべき洞察力と言う他ないが、当時すでに、科学と技術は区別されていたことにも驚く。筆者にとって、古代ギリシャ(+ローマ)文化全体が、魅惑の園である。

この種の、昔の賢人たちの洞察力には、学ぶべき点が多い。その例として、最近読んだ本を紹介したい。

それは「仏教は宇宙をどう見たか アビダルマ仏教の科学的世界観」(佐々木閑、DOJIN文庫001、化学同人)と言う書で、筆者は実に面白く読んだ。仏教思想の世界観・存在論・認識論には、現代の我々にとって示唆するものが非常に多いと感じた。なるべく多くの方々に読んでいただきたい(なお、アビダルマ仏教に関しては、櫻部建・上山春平「存在の分析〈アビダルマ〉」角川書店、が非常に分かりやすく面白い。梅原猛その他編「仏教の思想」全15巻中の第2巻)。

断っておくが、筆者は仏教を宗教として信仰してはいない。仏道修行に励むことはなく「悟り」からもほど遠く、精進料理専一どころか生臭くても美味いものは大好きで、煩悩まみれの俗物に過ぎない。なお、仏教と言えば抹香臭いと思われがちだが、本来、仏教は葬式とは何の関係もなかった。鎌倉時代の親鸞でさえ、自分は親の菩提なども弔うことはない、と言っている(葬式仏教になったのは江戸時代以降)。仏教は本来、実践を伴う「哲学・思想」なのである。

上記の本では、まず仏教の物質論を紹介している。アビダルマ仏教では、我々を取り巻く世界がどのように出来上がっていて、それを我々はどのように認識するのかを非常に精密に考察し、75種類の法(ダルマ)に分類した。「法」の概念は説明が難しいが、うんと簡略化すれば「この世界を構成する要因・基本要素」とでも言っておこう。その中には、現代で言う「原子論」も含まれている。それも、一次基本粒子(4種類)とその混合である二次可変粒子(「所造色」と言う)を考える手の込みようである。現代の素粒子論や分子論に近い。

その外界を我々が認識する段階として、まず五感(目耳鼻舌身)に関わる色・声・香・味・触を前提に、それを認識する場としての「心(意、識とも言う)」を考え、その働きの分担場所として「心所」を措定する。これはちょうど、人間が五感のセンサーから得た信号を脳に送り、脳内個別の分担場所で認識し情報処理すると言う、現代的な理解と一致する。しかも「心・心所は特定の空間には存在しない」と考える。つまり、脳全体・身体全体で認識するのだと考えており、これは現代の認識から見てもおそらく正しい。脳は脳だけで考えているのではなく、腸や筋肉や各種臓器・ホルモン・免疫系などからの情報を相互にやり取りしてネットワークを形成していることが分かっているからである。

この「心・心所」の考えをさらに推し進めたのが、アビダルマの後に出てきた大乗仏教、その中の「唯識(ゆいしき)」学派で、驚くべきことに、現代の最先端の脳科学がたどり着いた意識構造モデルは、唯識の「八識説」とそっくりなのだ(詳しくは浅野孝雄「古代インド仏教と現代脳科学における心の発見」産業図書、参照)。

八識とは、通常の五感に、我々の「意識」(この言葉自体、唯識から来ている)、意識下にある「末那識(まなしき)」(潜在意識に相当)と、さらにその下にある「阿頼耶識(あらやしき)」を加えたもの。潜在意識は19世紀にフロイトが提唱し、今では全意識の9割方は潜在意識または無意識だとまで言われているが、その下に広がる「阿頼耶識」まで考えた近現代人はいない。しかし現代脳科学で「脳幹」が原初的情動の元になっていることが分かり、それが「阿頼耶識」に相当すると考えられる。

坐禅・瞑想だけでこうした洞察に到達した古代インド人の明察には感嘆の他はない。なお「阿頼耶識」の存在は「言葉になぜ「意味」があるのか?」と言う、言語学上の根本問題に繋がるのではないかとの、興味深い指摘がある(井筒俊彦「意味の深みに」岩波文庫その他、参照。井筒作品は、いずれも内容豊富な名著揃いである)。

さらに、仏教の時間論もまた、極めて興味深いものである。我々が常識的に捉えている時間観〜過去から現在、未来へと一方向に連続的に流れる時間と言う捉え方〜は否定される。筆者はかねて、道元の「正法眼蔵」冒頭の「現成公案」にある(薪が燃えて灰になる現象を指して)「灰はのち、薪はさきと見取すべからず。(中略) 前後ありといへども、前後際断せり」と言う時間論を不思議に思っていたが、その源流はアビダルマ仏教にあったのだ。

この時間論を基に「諸行無常」と「業(ごう)」の関係が解き明かされる有様は、実に興味深い。しかも、時間は上記75種の「法」に含まれていない。つまり、時間とは実体のない仮説だと言っている。現代哲学の「時間論」で、複数の論者がこれに近い議論をしていることも、オドロキと言える。

この世が「諸行無常」で移り変わって行く間に、生き物をつくる諸要素も少しずつ変移する。個々の変移は僅かだが、つもり重なって「業(ごう)」となって結実すると言う理論は、現代のカオス理論に酷似している。コンピュータによる膨大な計算実験により、僅かな初期値の違いが大きな違いに広がって行く現象の存在が明らかになっている。

長期的な気象予報が困難(と言うより不可能)なのは、このカオス理論が効いてくるからである。今世紀末までの気候変動シミュレーションなど、どうして可能だなどと言えるんだろうか?頭が、単細胞すぎると思うのだが。

アビダルマ仏教では、物質でも心・心所でもない、一種の「エネルギー」のような存在も考えているが、これは説明が長くなるので、ここでは省略する。これに関連して興味深いのは、生物と非生物の区分に関する考え方である。これに関しては、仏教内部でも意見が分かれていたが、伝統的アビダルマでは「生物の内部には、生物を生物たらしめる要素(衆同分と呼んだ)があるはずだ(これと明示はできていないが)」と考えていた。現代生物学でも「生命とは何か」「生きているとは何か」は大難問であるが、2000年前のインド人はこんなことまで考えていたのである。

この生物観の基になる考えとして、仏教では「生命の本体・実体など存在しない。すべては要素の集合体に過ぎない」という「空(くう)」の思想が根本にある。「我思う、故に我あり」とは正反対の見方であり「我」などと言う実体は存在せず、すべては仮の姿だと言うのである。ただし、空というのは、空っぽ、何も無い空虚、ではないことに注意したい。

簡単な説明は難しいが、敢えて言えば「これ」と言った具体性を持たない未分状態のエネルギーが充溢した有り様、とでも言っておこう。なお、大阪万博では「空」の思想を表現するために巨大な虚空空間を作るそうだが、それは「空」の全く皮相的な捉え方であり、頭の空っぽな人間の考えることである。

上記佐々木閑氏の本の第5章は「総合的な因果の法則」と題された、これまた興味深い内容を含んでいる。詳細は略すが、後の「華厳(けごん)思想」に近く、現代の問題意識で言えば、生態系における相互依存関係、多様性の尊重などを含み、これからの持続可能社会を考えるためのヒントを数多く含んでいると思う。

なぜこんなことを長々と書いたのか?実は、ここまでは序論に過ぎず、現代においてなぜ我々が仏教思想から学ぶ必要があるのか(=仏教思想の現代科学的な理解と現代社会への寄与)については、さらに語らねばならないことがある。紙幅が尽きたので、それらは次回以降に。