競争だけで人材の質は高まるか

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ポリシーはどこへやら

大学が新入生を迎えた今年の4月。華やかな春のイメージとは裏腹に、生徒募集というビジネス事情に目をやると、各大学は熾烈な競争を繰り広げていた。特に近年は、一度は不合格にした受験生を合格に転ずる「追加合格」の措置を採る大学や、不合格とするのが不都合なため「補欠合格」と称して実質的には追加合格と同様の措置を採る大学が増えつつある。

これは、 早慶上智やMARCHといった所謂銘柄大学でも例外ではなく、少子化で生徒の奪い合いは激しさを増すばかりだ。各大学の競争は入学直前の3月31日まで継続する。

しかし、各大学には入学者受入の方針として「アドミッション・ポリシー」がある。企業の採用活動に置き換えれば「求める人材像」である。学校教育法では、全大学がこのポリシーを公表するものと定められている。

にもかかわらず、先の通り、サバイヴするためには背に腹は代えられないと、不合格者を合格へと掌返しを実行する。自ら掲げたポリシーはどこへいったのか。

教育のドミノ倒し

一連のミクロ現象から日本全体の人材育成に思いを馳せると、日本が優れた人材の輩出場となっているか些か疑問符がつくが、個別大学の心掛けといった心理学的問題でも、入試広報の手練手管の工夫といった技術的問題でもなく、最早構造的問題である。定員厳格化、入試制度、単位付与条件、卒業要件、就職活動スケジュールなど、ルールの決め手は国である。

ルールに基づいた結果、大学選択でいえば、「距離が近いから」「偏差値が上位だから」など、凡そ大学のポリシーで選択されているとは言い難い状況が跋扈しているが、それでも量が確保されれば御の字だと各大学は胸を撫で下ろす。これは企業でも同様である。採用計画の達成のために、量と質のジレンマを抱える。

ただし、質をなおざりにして量を優先すると必ず皺寄せが生じる。高校での皺寄せは大学に、大学の皺寄せは企業に。幸運にも企業が入社「させてくれる」から大学の教育は不幸にも甘くなる。幸運にも大学が入学「させてくれる」から高校の教育は不幸にも甘くなる。教育のドミノ倒しは、日本の人材育成にとって危機である。

優等生問題

優等生は質の高い教育がなされているではないか、という声もあるだろうが、公平・平等を掲げる教育機関において、優等生よりも劣等生に時間を取られてしまうことは教育関係者の共通認識である。その意味で、優等生も経済原理やビジネス事情と無縁ではない。社会変革に使命感も興味関心も持たず、いかに今の社会秩序の下で多くの取り分を確保し、逃げ切るかばかりに自らの努力と才能を振り向ける優等生もいる。

また、「もっとも京大らしい」京大教授と言われる酒井敏先生が、「あまり問題のなさそうな明るくて積極的な学生でも、単に要領よく周囲から高い評価を得ているだけで、必ずしも自分の意志がはっきりしているわけではない」学生の方が「深刻な時限爆弾」かもしれないと指摘する問題も優等生問題の一つである(『京大的アホがなぜ必要か』集英社)。お勉強が得意な優等生だからといって無問題ではない。

ある高校の校長は、「偏差値上位校こそキャリア教育が必要である。上位校は、キャリア教育などに時間を使わず受験勉強一辺倒を許されているのが実態だが、とんでもない。勉強ができる人が全員人格者なのか、全員仕事ができるのか。人の幸せと痛みが分からない人間が『上位』に立つ資格はない」と憤慨気味に指摘していた。

刈り取りの前に耕作あり

人材の採り合いをするのは結構だが、肝心の人材は育っているのだろうか。刈り取りも重要だが、その前に土壌は耕されているのだろうか。競争が質を高めるというのは一理あるだろうが、競争だけで質は高まらない。競争自体が目的化し、無益な競争や不毛な競争に陥らぬよう、日本の人材ポリシーを再点検し、適合的な競争ルールの整備が不可欠である。悪貨に良貨を駆逐させてはならないのである。