民間月面探査プログラム「HAKUTO-R」を手がけ、独自のランダー(月着陸船)とローバーを開発する日本の宇宙ベンチャーispaceは、7月14日に開発進捗に関する報告会を開いた。現況は「ミッション1のランダーの熱環境モデルでの環境試験」が完了し、フライトモデルの本格的な組立に移行するフェーズだという。
「HAKUTO-R」ミッション1のランダーの5分の1モデル。東京スカイツリータウンで開催の「Society 5.0科学博」で展示中
HAKUTO-Rは、2022年のミッション1で月面着陸、2023年のミッション2で月着陸と月面探査を目指しており、熱構造モデルの環境試験クリアは同社初となる月面着陸に挑むうえで、技術的に非常に重要なマイルストーンだったという。今後は、2021年内にフライトモデルの組立完了、2022年前半に米国フロリダへ輸送、2022年後半にSpaceXのFalcon9を使ってランダーを打ち上げる予定だ。
「HAKUTO-R」ミッション1のマイルストーン
民間主導での月探査に意欲
冒頭に登壇したispace ファウンダー&代表取締役の袴田武史氏は、「米国のアルテミス計画が始動するなど、世界中で月探査、月開発への注目が集まりつつある。これから重要なのは、国家主体ではなく、民間が産業として取り組む環境を作っていくことだ」と話し、国内の動向を2つ紹介した。
1つは、6月15日に国会で「宇宙資源の探査及び開発に関する事業活動の促進に関する法律」(宇宙資源法)が成立したことだ。この法律は、日本国内において宇宙資源を商業的に利用できる論拠となる。これは、米国、ルクセンブルク、アラブ首長国連邦に続いて4カ国目で、世界的に見ても早い対応だという。袴田氏は、「今後、国際的なルール作りにおいても、日本が指導的な立場を発揮できることを期待している」と話した。
ispace ファウンダー&代表取締役 袴田武史氏
もう1つは、この報告会のまさに前日、7月13日に「月面産業ビジョン協議会」が日本政府に対し、「月面産業ビジョン Planet6.0時代に向けて」を提出したことだ。近年、米国や中国をはじめ各国の月面開発が進むなか、日本の産業界として構築するべき月面産業のビジョンについて、6つの決意と7つの政策提言をまとめたものだという。
袴田氏は、「月産業全体の発展に必要な制度が整備されてきた。次は、われわれが着実にミッションを実行して、実績を作っていく番だ」と意欲を示し、2022年の打ち上げに向けてミッション1の現在の進捗をこのように説明した。
「ミッション1で月に着陸するランダーの開発は、今年4月から熱構造モデルの製造を成田で行い、JAXAつくばでの宇宙環境試験において問題がないことを確認した。また、熱構造モデルの環境試験と並行して、ドイツのランポルツハウゼンにあるアリアングループの施設で6月初旬からフライトモデルの組立も進めており、今後はこれを本格化する。2020年12月、東京都日本橋に開設したミッションコントロールセンターでは、ミッション中に不測の事態が起きないよう、どんな事態にも迅速に対応できるよう、ミッションオペレーターたちがシミュレーションを行なっている」(袴田氏)
ispaceは約150名の社員が日本、米国、ルクセンブルクで活動している
振動、音響、熱真空、3つの環境試験をクリア
「ミッション1のランダーの熱環境モデルでの環境試験」については、下村秀樹CTOが説明した。具体的には、振動試験、音響試験、熱真空試験の3つを実施したという。
振動試験では、機械的に振動を与える装置を用いて、打ち上げ時の振動への耐性を確認した。打ち上げ時にロケットのエンジンやブースターから発生する機械的振動や、ロケットが大気圏を抜けて宇宙に到達するまでに受ける空気抵抗による振動によって、精密機器や各パーツの接合部分に破損が生じる可能性があるため、開発フェーズにおいて機械的振動を利用した振動試験を行なった。
音響試験では、ロケットの噴射によって起きる大音響による振動を模擬した試験を行ったという。
熱真空試験では、スペースチャンバーを用いて、宇宙環境や月面での耐性を確認した。垂直円筒型、直径8mのかなり大きなチャンバーにランダーを入れ、まず空気を抜いて真空状態にしてヒーターで加温。温度を少し変化させながら10日間、24時間交替制で観測を行い、熱構造モデルの適切性を確認したという。
下村氏は、「このような環境試験を行う背景には、宇宙特有の熱設計、制御の難しさがある」と話して、その詳細についても解説した。たとえば、宇宙空間の温度は太陽光が当たる部分では非常に高温、逆に当たらない部分ではマイナス270度程度まで下がるため、一般的な宇宙機は多層断熱材を使用することで内部を一定の温度に保つ。また、真空環境では対流などによる熱制御ができないため、物質を介した熱放射を利用して温度をコントロールする必要性があるという。
そして、「このような金色の多層断熱材で覆った状態で打ち上げる予定。ランダーが月に着陸した時を、ミッションコントロールセンターから皆様にお届けできる瞬間を楽しみにしていてほしい」と挨拶した。
2022年に向けて、企業との協業も着実に進む
続いて、HKUTO-Rのコーポレートパートナー企業との協業について、中村貴裕COOが報告した。現在、HAKUTO-Rにはコーポレートパートナーとして日本航空、三井住友海上火災保険、日本特殊陶業、シチズン時計、SUZUKI、住友商事、高砂熱学工業、三井住友銀行、SMBC日興証券が参画しているという。当日は、シチズン時計、日本特殊陶業も登壇して、協業の進捗をともに報告した。
シチズン時計とは、スーパーチタニウムの使用に向けて協業している。シチズンがHAKUTO-Rに提供するスーパーチタニウムは、シチズンがチタニウムを腕時計に世界で初めて採用してから半世紀以上、開発、改善を重ねてきたチタニウム加工技術と表面硬化処理技術を施した、独自の素材だという。ミッション1のフライトモデルで、ラウンダーの脚部パーツに採用することが決定した。
この協業に関してシチズン時計 執行役員の矢島義久氏は、「スーパーチタニウムは、チタニウムの軽さはそのままに、ステンレスの5倍以上の硬さを実現した。傷に強く、軽く、肌に優しいという特徴がある。現在、7月末の納品に向けて、国内のエンジニアが部品加工、表面硬化処理、検品などを行なっている」と進捗を報告した。また、7月8日に新発売したメンズ腕時計ブランド「CITIZEN ATTESA(シチズンアテッサ)」と民間月面探査プログラムであるHAKUTO-Rのコラボレーションモデルを中村COOに贈呈した。
日本特殊陶業とは、固体電池の分野で協業している。すでに宇宙向けの各種環境試験をクリアしたフライトモデルの電池の試作を完了しており、2022年のHAKUTO-Rのミッション1では固体電池の実証実験を行う計画だという。
この電池は、日本特殊陶業が長年培ってきたセラミック積層技術を応用して開発された酸化物系全固体電池。不燃性で有毒ガスが発生しない、液体のリチウムイオン電池に対して稼働可能な温度範囲が広く、環境安全性も高い。日本特殊陶業の研究開発本部研究部で主任をつとめる獅子原大介氏は、動画でコメントを寄せてこのように話した。
「宇宙環境向けの試験では、電池を保護する金属筐体の設計に関し、シミュレーションなどを用いて材料面や構造面の最適化を図った。初めての経験で容易ではなかったが、月面では低温、高音域での実証試験を通して、本電池の宇宙環境での実績を作りたい。今後、月探査を始めとした過酷な環境で安定的に電力を供給できる電池は非常に重要になる。宇宙向けの電池に求められる軽量化に関して、従来の液体のリチウムイオン電池システムで必要とされていた温度調整システムの簡素化につなげていきたい」(獅子原氏)
2022年のミッション1ではペイロードも確定しているが、2023年のミッション2ではispaceが自身で開発したローバーを運んで月探査することを目指す。なお、ミッション2のペイロードはまだ募集中とのこと。「HAKUTO-R」では引き続きオフィシャルパートナー、コーポレートパートナーも募集しているとのことで、さらなる多様な協業が期待される。