みなさんには、思い出の喫茶店はあるだろうか。わたしにはある。
地元の長崎県佐世保市にある「白十字パーラー」の2階レストランもその1つで、「ちょっとオトナになれる外食スイーツ」を教えてくれたお店だ。
今月頭、そんな思い出深いレストランが閉店するというニュースを聞き、ショックのあまりInstagramの公式アカウントにDMを送ってしまった。
三代目の近藤英三社長から、貴重なお写真とともにパーラーのこれまでを聞くことができた。
佐世保の老舗喫茶店「白十字パーラー」
「白十字パーラー」は、佐世保の名所でもある直線距離日本一の「さるくシティ4〇3アーケード」内に店を構える老舗喫茶店だ。
1階は佐世保銘菓「ぽると」をはじめとしたオリジナル焼き菓子や関連グッズなどを販売している。
2階はレストランとなっていて、本格的な洋食やケーキ、パフェなどのスイーツ、コーヒーなどがゆったりと愉しめるのだ。
残念ながら、今年の6月30日でここの2階レストランが閉店してしまう。
2019年にリニューアルし、内装やメニューが現在の形にがらりと生まれ変わったこのレストラン。
そのときたまたま工事を外から見ていて、閉店したのかと勘違いしてショックを受けたのを覚えている。
初めてここを訪れたのは30年以上前、母とのお出かけだ。
ご褒美としか言いようのないケーキやパフェが、分厚い表紙のずっしりとしたメニュー表に写真付きで載っていた。
しかも当時の内装は革張りのソファやアンティーク品などでとっても良い感じに年季が入っていて、照明も薄暗かった。
子どもにとってはまるで異世界のような、それでいて少しオトナになったような、ワクワクした気分にいつも浸っていたものだ。
真夏の幼稚園帰りに母と駆け込み、キンキンに冷えたクーラーの風に吹かれながらパフェを食べる贅沢な子どもだった。
中学生や、たぶん高校生になっても母と来ていた。話題はどんどん恋愛や人生の悩みに移り変わった。
友人たちとも何度か訪れて、オレンジジュース一杯で何時間もおしゃべりした。ケーキを食べるたびに「明日からダイエットする」と誰か1人は言っていた。
新人記者の頃は良い企画が思いつかず、アーケードを歩く人々をぼーっと眺めながらため息をついたりもしたけど帰りにはなんだか元気が出ていた、そんな場所だった。
レストラン閉店のニュースを聞いた翌日、わたしは「白十字パーラー」三代目の近藤英三社長とお会いした。
取材にご協力いただくことへの感謝を伝えつつ、しょっぱなから思い出話と寂しさを一方的にお伝えしてしまった。
社長は「有難うございます。レストラン閉店に関しまして、とても心苦しく感じています。私でよろしければ、お話させていただきますね」と穏やかに微笑み、一冊のアルバムを開いてくれた。
誕生したのは東京の喫茶店がきっかけ
「本格的なコーヒーとフランスケーキが味わえる店が誕生する」。
戦後間もない1951年、そんな心湧き立つニュースが佐世保に広まった。
店名の由来は、なんと東京の喫茶店へのリスペクトからきているのだという。
近藤社長「和菓子職人だった初代(近藤社長の祖父)が、東京の白十字堂という喫茶店を訪れて感銘を受け、佐世保でもこんな素敵な自分の店を持ちたいと名付けたようです」
初代の近藤徳治(とくじ)さんは、長崎県南島原市生まれ。
実家の農業とそうめん作りの手伝いで少年時代を過ごし、和菓子職人の道へと進んだ。修業を経て佐世保の和菓子店に移り、縁のあった女性と結婚。
1940年に「山水堂」の看板をあげて独立した。
この本によると、戦後しばらくは荒物屋、時計店、進駐軍相手の土産品店を経営していたそうだ。
近藤社長「そのころ佐世保中心部には喫茶店がなかったんですよね。洋風で、コーヒーとケーキが愉しめるお店というのが。場所は現在のここ(佐世保市本島町)でささやかな店舗でスタートし、改装や増築を経て今に至ります」
創業時は朝鮮戦争真っ只中。地元民のみならず外国人兵士たちも多く足を運び、店は大いに賑わったという。
近藤社長「動乱中で砂糖が手に入りにくい時代でした。しかし和菓子職人の初代独自のコネクションで何とか仕入れることができたそうなんですよ。それで思い切って、憧れだった洋菓子販売の喫茶店に舵を切ったようです」