歌舞伎役者の市川猿之助さんが5月18日、自宅で意識がもうろうとした状態で見つかり、別の部屋で見つかった両親の死亡が確認された事件で、警視庁は、司法解剖の結果、両親が向精神薬中毒で亡くなった疑いがあると明らかにした。また、猿之助さんは事情聴取で「死んで生まれ変わろうと家族で話し合い、両親が睡眠薬を飲んだ」という趣旨の話をしているという。
事実とすれば、睡眠薬をはじめとして抗うつ薬や抗不安薬などの向精神薬を日々処方している精神科医としては、この手の薬が自殺目的で使用され、2人も死亡したことに慄然とする。そこで、この事件を精神科の臨床医としての視点から解説したい。
現在使用されている睡眠薬の多くはベンゾジアゼピン系である。この系統の薬は、呼吸抑制の副作用が多少あるとはいえ、それほど強いわけではない。だから、たとえ大量に服用しても、意識レベルが低下する程度で、死に至ることはまれだ。
ただ、猿之助さんの両親は2人とも後期高齢者で、元々心肺機能が低下していた可能性があるし、とくに父親の段四郎さんは2013年12月、猿之助さんの襲名公演となる京都・南座「吉例顔見世興行」公演の最中に倒れ、それ以降は表舞台に出ることなく療養していたということだから、致死的な事態になったのかもしれない。
一方、かつてよく用いられていたバルビツール酸系の睡眠薬は呼吸抑制の副作用が強く、大量摂取すると死亡する危険性が高い。最近はあまり用いられなくなったが、それでも他院からの紹介状を見ると処方している医師がいるようなので、この系統の薬を手に入れることは現在でも可能である。
いずれにせよ、死亡したということは、大量に服用した可能性が高い。一体、それだけの量の睡眠薬をどうやって入手したのだろうか、ため込んでいたのだろうかと考えると、今後処方することに恐怖すら覚える。
そもそも、向精神薬は処方薬であり、医師の診察を受け、処方してもらわなければ入手できない。猿之助さん一家の誰かが心療内科もしくは精神科を受診して処方してもらっていたのだろうか。
あるいは、外部の誰かが処方してもらった薬を譲り受けたのかもしれないが、これは麻薬及び向精神薬取締法で禁止されている行為である。最近は、ネット上で向精神薬が密売されているそうなので、ネット通販で購入した可能性も否定できない。
いずれにせよ、死亡した両親の血液の分析によって摂取された睡眠薬の種類を割り出し、その入手経路を突き止めることが今後の捜査で重要になるだろう。
自殺未遂は自殺の最も重要な危険因子
自殺を図ったものの一命をとりとめた猿之助さんは、搬送先の病院から退院し、警察病院に転院したらしいが、これから大切なのが再度の自殺企図をどうやって防ぐかということだ。というのも、自殺未遂は自殺の最も重要な危険因子だからである。自殺未遂に及んだ人が、その後自殺してしまう確率は、自殺未遂の既往歴がない人と比べて数十倍から数百倍高いことがわかっている。
しかも、猿之助さんは深刻な喪失体験に直面している。まず、精神的に重要なつながりがあった両親を突然不幸な形で亡くしており、それによる罪悪感や自責感も強いはずだ。また、主演舞台を降板し、歌舞伎の舞台に2度と立てなくなる恐れだってあるだろう。さらに、自殺を図る前にスキャンダルが報じられており、名声も評判も傷ついたと本人は思っているに違いない。
喪失体験も自殺の危険因子として重要であり、猿之助さんは複数の危険因子を抱えているように見える。入院先の病院では24時間体制で、2名の警察官が交代しながら猿之助さんに張り付いて監視していたということだが、これは逃走防止というよりもむしろ自殺防止のためではないか。今後も厳重に注意しながら見守り、手厚い心のケアをして、再度の自殺企図を何としても防がなければならない。
(文=片田珠美/精神科医)