大阪湾にそそぐ淀川の河口近くにクジラが迷い込んできたらしい。
そんなニュースが飛び込んできたのは2023年1月9日のことだ。
正月明けの世間の浮ついた空気をかき回すかのように現れたこのクジラは、一夜明けた1月10日になっても退去するそぶりを見せずに居座り続けているという。
ひょっとしたら弱っているのかもしれないクジラには申し訳ないが、せっかくなら、見たい。
滅多にない機会を逃すまいと、さっそく見に行ってきた。
淀川河口を目指す
クジラは、淀川河口部にかかる阪神高速の橋を走行中の運転手が見つけて通報したものらしい。Google Mapとにらめっこしながらクジラが見えそうな場所を探す。
「通常に比べて混んでいます」
クジラのいる正確な場所は公開されていなかったため確信はなかったのだが、とりあえず人の多そうなところにいけば可能性が高いだろうということに。目星をつけたのは淀川・高崎川両河川の河口にはさまれた土地の突端にある矢倉緑地公園だ。
この日は大阪で別の用事があったため朝早くに家を出たのだが、行きの電車の中でさんざん悩んだ挙句、そっちはキャンセルしてクジラを見に行くことにした。「翌日あらためて出直そう」などといって、夜のうちにクジラが湾外に脱出して見られなかったりしたら、死ぬまで後悔しそうではないか。
そんなわけもあり早い時間に大阪まで来た。せっかくだから十三駅から淀川河川敷に出て、目的地まで散歩しながら向かうことにした。
道のりを三分の一くらいきたところで、自転車に乗った二人組の少年たちが
「すいません!クジラってどこですか!?」
と大声で聞いてきた。
こちらもクジラのことを考えながら歩いていたので、目の前に現れた見ず知らずの少年の口からいきなりクジラという言葉が出てきて「え!?」と驚いてしまった。彼らはいったい私のどこに「クジラの居場所を知ってそうな人」のオーラを感じたのだろうか。
「君らもクジラを探してるの?クジラはこんなところにはいないよ。このまま川を下って海に出るところまで行かないと見られないよ」
なんとかこれだけ答えると、少年たちは
「ありがとうございまーす!」
と叫んで走り去っていった。
いきなり話しかけられて面食らったが、自転車でクジラ探しの冒険に走る子供たちのことを思うと、こちらまで一層強く胸が高鳴るのを感じた。
7㎞の道のりは長く、河川敷にはほかにもいろいろと目を引くようなものもあった。だが、とりあえず今はクジラだ。
目的地の矢倉緑地公園に近づくにつれて、明らかに人が増えてきた。それも子連れが多いようだ。
このあたりはとても辺鄙な場所である。手前には数百mに渡って工場地帯が広がっていて、公園とは言うもののとてもではないが子供を連れてわざわざやってくる場所とは思えない。
みんな、遠目とはいえクジラを見られるかもしれない機会に惹かれて集まってきているのだ。そんな人たちに混じって、私の脚も自然に速くなる。
遠くにクジラが見えた!
クジラは、一望した範囲では見つけられなかった。
ひょっとして元気になって湾外に脱出したのだろうか?それならそれでよいのだが。
隣で双眼鏡をのぞいていた男性に
「クジラ、いますか?もういなくなっちゃいましたかね?」
と聞いてみた。
「いや、いるよ。あそこ」
という答えが返ってきた。
これは、相当注意して見ないとわからない。肉眼では波の陰影の、陰の部分とほとんど見分けがつかないくらいだ。
オカルト誌に掲載されたUMAレベルの不鮮明な画像しかなくて申し訳ない。しかし、この日もってきたコンデジではこれが限界だったのだ。
しばらく観察していると、クジラのいるあたりにブワッと水煙が立ち昇った。
クジラの潮吹きだ!これは肉眼でもはっきりと確認できて感動した。
周りの人たちも
「あ、潮吹かはった!」
(「~しはる」はおもに敬語として使われる語尾なのだが、関西人はなぜか動物に対してもこういう言い方をすることがある)
「うそ!見てなかった!」
などと言っている。
横では幼稚園の制服を来た子供たちが
「淀ちゃーん!バイバーイ!!」
と絶叫しながらかけ去って行った。
正直に言うと、クジラそのものは5分ほどで見飽きてしまった。よく見えない上にたまに潮を吹いたりする以外には変わり映えがないのだ。
それに引き換えギャラリーの反応はおもしろい。クジラを前にした反応はまさに十人十色である。クジラはこの前日に現れたばかりなのに、「淀ちゃん」という愛称がすでに幼稚園児にまで浸透していることにも驚いた。
話を聞くと、おじさんは普段からこの公園に通って鳥の写真を撮っているのだという。今日は河口にクジラが現れたというので、朝からこの周辺の撮影ポイントをいくつか周ってきたのだそうだ。
「あっちの対岸とかも、行ってきましたよ。今の時間は逆光でぜんぜん見えへんと思うけど」
そういって指さす方向を見ると、たしかに高崎川をはさんだ向こう側の堤防の上にこちらと同じように大勢の人がいるのがミニチュアみたいに小さく見えた。
今クジラがいるポイントは一般人が徒歩で入れるいずれの場所からも絶妙に離れているらしく、これ!というわかりやすい写真は撮れていないらしい。
「あれが一番の特等席やで」
そういうと今度は空を指さした。
私がここに来た時から、クジラの周囲にはほぼ常時2~3機のヘリコプターが飛んでいる。それだけのニュースバリューがあるんだなあと素直に感心してしまう。
「今はまだ動いてるけど、あのクジラはもうあかんやろなあ」
そう言うとおじさんはカメラを片付け始めた。日が傾いて、だんだん寒くなり始めていた。この「あかんやろなあ」という予想は、残念ながら3日後に現実になるわけだが、この時は誰も知る由もない。
かくいう私も
「流されずに同じ場所に留まってるなんて、案外元気じゃん」
などと考えながら、帰宅の途に就いたのだった。
帰りは河川敷ではなく市街地を突っ切って十三まで歩いた。
「思い立って海に行く」を初めてやった
初めの方で書いたように、もともとの予定ではこの日クジラを見に行くつもりはなかった。でも、見に行ってよかった……! 後日改めて出直したのでは、残念な結果に終わっていた可能性が高い。軽率に行動するのがよいこともあるんだなと思ったのだった。