政治は統治力を取り戻せ

アゴラ 言論プラットフォーム

kokouu/iStock

最近の政治を見るとどうも大きいことは専門家が決め小さいことは政治家が決めるようだ。コロナ禍への対応は医療の専門家によって決定された。防衛国債ではなく防衛増税を担保とした安全保障政策の大転換も解散を目的とした旧統一教会への質問権の行使も「有識者会議」の主張が通った。

政治家自身が専門家に遠慮した結果、コロナ禍対策として空前の国債発行、防衛増税の推進、信教の自由への露骨な侵害がまかりとっている。

政治家の専門家観を考えるうえで2020年10月に起きた「学術会議の任命拒否」も参考になる。

学術会議の任命拒否について日本共産党を中心に異常にこだわる政治家達がいて、これに遠慮し与党は「学術会議の廃止」が決断できないでいる。さらに学術会議を巡っては貴重な国会審議が浪費された。2020年10月といえばコロナ禍の真っ只中であり、ワクチン接種の達成が不透明だった時期である。専門家の取り扱いを巡って国民の生命に関する議論が先送り・停滞した事実は極めて重い。

政治は専門家の意見は尊重すべきだが、最近の政治はその域を超えている。

重要な事案であればあるほど専門家が決定する政治状況は早急に是正されなくてはならない。そのためにも政治家には意識改革が求められ、具体的なそれは「統治」意識の自覚である。

昨今の政治家(特に野党政治家)はどうも「教養」意識が強く、それが専門家への迎合を招いているように思えてならない。ちなみにここで言う教養意識と「教養不足」の批判を恐れる意識も含まれる。

政治家が教養を身につけることにどれほどの意義があるのかそれ自体興味深いテーマであるが、仮に肯定的に評価したとしても教養を身に着けることが政治家の仕事ではないことは明らかだ。政治家は教養を身に着けるべきだとしてもそれは統治に資するものに限られる。

統治はいかめしく時代がかかった言葉であり日本国憲法は国民主権を謳っているから政治家が統治意識を持つことは問題だという意見もあると思うが、そうした意見は優等生過ぎると言わざるを得ない。

「政治家の仕事は国を統治することである」を否定する者はいないだろう。過去も現在も未来も政治家の仕事に統治は含まれるはずである。

政治家に「日本国を統治する」という意識があれば彼らは全政策領域に関心、被統治者の処遇について意識せざるを得ないだろうし統治を根拠に私達は政治家の専門家への迎合、決断放棄、責任回避を批判することもできる。

「被統治者の処遇」という点では筆者は昨年の左派マスコミによる旧統一教会報道を想起せざるを得ない。被統治者たる信仰者を社会でどう処遇するのか、どう位置付けるのかを政治家が真面目に考えず、あまつさえ憲法学者の造語である「政教分離」を根拠に真面目に考えないことを正当化した結果が異常で異様な旧統一教会報道を招いたと思うからだ。

話を戻そう。「日本国の統治者は国民である」といった優等生的議論が政治家の統治意識・被統治者概念の欠如を招き政治と報道による基本的人権の侵害を招いたこと、テロ対策の国会審議が阻まれた事実は深刻なことと捉えるべきであり、この再来を防ぐためにも政治家に統治意識を自覚させる必要がある。

政治家の自覚をただすために私達国民は政治の評価法についてもっと真面目に考えなくてはならない。

「政治を評価する」とは政策を評価することに他ならない。

そして政策とは法と予算である。「法と予算への評価」=「政治を評価する」ことである。

政治家がどこの神社に初詣へ行ったとか、どこかの宗教団体と接点があるとか、パンケーキを食べたとかは「政治を評価する」ことではない。こういうくだらない評価は今すぐにでもやめるべきだ。

日本がこれからも国として存続するためにも、子孫に優れた資産を残すためにも、国民が子孫を残したいという感情をもつためにも政治家・国民双方が統治について真剣に考えこれを取り戻さなくてはならない。

「政治は統治力を取り戻せ」と締めここに筆を置く。