ロシア中部コストロマのナイトクラブで5日未明、大規模な火災があり、地元メディアによると少なくとも13人が死亡した。客同士のトラブルがあった後、店内に信号弾が発射され、引火したとの情報がある。侵攻下のウクライナから8月に負傷して戻った23歳の軍人の男が拘束された(モスクワ発時事通信)
この記事を読んで多くの読者はイラクやアフガニスタンの戦場から帰還した米国兵士の事件を思い出しただろう。ベトナム戦争帰りの米軍兵士が社会に再統合できず、心的外傷性ストレス障害(PTSD)で苦しむことが当時、メディアで大きな関心を呼んだ。死の危険の戦場から帰国後、その体験の記憶がフラッシュバックのように思い出されたり、悪夢を見たりすることが続き、不安や緊張が高まったり、時には銃撃事件など暴発を犯す。イラクやアフガンからの米帰還兵の「その後」の日々を描いた映画は話題となった。最近では、2006年米国制作のイラク戦争から帰還した米兵士のPTSDに悩む状況を描いた「Home of the Brave」(勇者たちの戦場)がある。
23歳のロシア軍兵士の場合、その犯行動機は不明だが、兵士は負傷して帰国、休日にナイトクラブに足を運び多くの国民が踊りに興じている姿を目撃しただろう。ひょっとしたら、戦場帰りの若者は怒りを感じたかもしれない。「俺たちが国のために戦っている時に…」といった思いが沸くかもしれない。また、「俺は何のためにウクライナで戦い、負傷したのだろうか」等々の苦い思いが次々と出てきたのかもしれない。ロシア側の捜査を待たなければならないが、23歳のロシア軍兵士の犯行動機は多分、公表されないだろう。
独週刊誌シュピーゲル最新号(10月1日号)は1人のロシア脱走兵の話を掲載していた。34歳のPawelF氏はウクライナの戦線で戦い、目を負傷、モスクワに戻り、治療期間中、部隊で体験したロシア軍の内情をブログで書き、ソーシャルネットワークなどに掲載したが、治安当局にマークされ、拘束される危険が出てきた時、人権団体の支援を受け、ロシアを脱出することを決意し、チュニジア経由で8月28日、フランスのパリに政治亡命した。
Fは141ページに及ぶ体験談をまとめたが、その中で「ロシア軍は何のために戦うのかさえ知らせず、食料や寝袋も十分ではなかった。多くの兵士は疲れ切って、戦闘中に眠り込む者も出てきた。軍の車両はある時、長時間停止。軍上司も明確な戦略などもちあわせていなかった」という(「ロシア脱走兵の証言」2022年10月7日参考)。
今回拘束された23歳の負傷したロシア兵は9月21日のプーチン大統領の部分的動員令発令後に従軍した兵士ではなく、既に従軍してきたのだろう。ウクライナではFと同じような情況下にあったことはほぼ間違いない。
時事の外電によると、独立系のロシア語メディア「インサイダー」は4日、ロシアのプーチン政権に近い民間軍事会社「ワグネル」が、ウクライナ侵攻で苦戦するロシア軍をてこ入れするために各地の刑務所で募集した戦闘員のうち、これまでに500人以上が死亡したという。重犯罪を犯した囚人を対ウクライナ戦線の前線に配置し、ウクライナ軍の動向を探る手段に利用していたという。独裁者にとって、兵士は駒であり、不足すれば補充するだけだ。兵士一人一人の状況、事情はまったく配慮されない。
ウクライナ軍の発表によると、10月29日の時点でロシア兵の死者数は7万人以上だ。実数はそれより多いだろう。死去した兵士には家庭、家族、知人がある。戦争は過酷だ。そして戦争が終わった後も多くの関係者は戦争前のような人生を送ることが容易ではない。
当方が住むオーストリアではボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~95年)の「その後」を思い出す。20万人の犠牲者、200万人の難民・避難民を出したボスニア紛争は1995年、パリでデイトン和平協定が締結されて一応終戦を迎えたが、その後、オーストリアではボスニア出身の難民の間で武器を使用した事件が頻繁に発生した。ボスニアで多くの国民は武器の使い方を学び、時には武器を不法所持しているから、銃を使った犯罪がよく起きた。特に、ボスニア紛争のように内戦の場合、紛争当事者間の和解は難しい。ロシアとウクライナ間の戦いもある意味で同じだ。ロシア人とウクライナ人間の婚姻は多く、双方の国に家族、知人を有している国民が多いからだ。
戦争は戦場での戦いで終わらない。停戦後もさまざまな形で続くケースが多い。PTSDだけではない。ロシア兵士の今回の事件はそのことを改めて物語っている。ウクライナ戦争を始めたプーチン大統領への警告だ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年11月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。