政治家の基礎力(情熱・見識・責任感)⑩:新しい資本主義

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岸田内閣は2022年6月7日に、資本主義実現会議編『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画~人・技術・スタートアップへの投資の実現』(案、同会議)を発表した。

以下、これを『新しい資本主義案』と略称して、その概要を踏まえながら、普遍と個別の軸を中心として問題点を洗い出してみたい。これもまた「政治家の基礎力」に該当する。

(前回:政治家の基礎力(情熱・見識・責任感)⑨:生きがいと役割

資本主義を超える制度は資本主義

まず冒頭に「資本主義を超える制度は資本主義でしかありえない。新しい資本主義は、もちろん資本主義である」(同上:1)が置かれ、全体像がここに集約されている。

すなわち、資本主義の先に社会主義や全体主義などを想定するのではなく、現在の資本主義を「新しい資本主義」に「バージョンアップ」させるという立場が鮮明にされた。

資本主義の特徴

しかし、何をもって「資本主義」とするかは論者によって、もちろん力点が異なる。たとえばシュトレークは、資本主義の特徴として①対立と矛盾、②不安定さと流動性、③歴史の偶然に依存などをあげている。(シュトレーク、2016=2017:7)。ただしこれだけでもいろいろな論点が錯綜する。「対立と矛盾」でいえば、資源をめぐる南北間、とりわけGNとGS間では恒常的な対立が現存する。もちろんイデオロギーの相違も原因の一つになっている。

これに関連して「不安定さと流動性」もまた強く、現代世界システムにおける東西陣営間での資源争奪競争、およびイデオロギーによる権力関係の不安定性に象徴される。

2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵略戦争で明らかになったように、イデオロギーが違うロシアからの天然ガス(LPG)のパイプライン(ノルドストリーム)を2本も用意していたドイツが典型例だが、電力資源としての石油、石炭、LPGなどはイデオロギーを超えて普遍的な貿易商品である。

しかし、ロシアによる侵略戦争を糾弾するために、NATO、EU、G7などが結束してロシア制裁に踏み切った際に、ドイツはそれまでのエネルギー資源輸入方針を撤回せざるを得なくなり、2本目のノルドストリームが中断された。同時に第2次世界大戦後続いてきたドイツ国防方針までも大転換するに至った。エネルギー資源よりもイデオロギーが優先されたのである注1)

エネルギー資源を武器に不安定さを乗り切る試みは現在のロシアだけではなく、過去の例では中東の産油国もレアメタルの中国も、そして石油大国のアメリカでさえも行ってきた。

資金、情報、商品、人の流動性

その不安定状況を個別に支えるのが、資金(Money)、情報(Information)、商品(Commodity)、人(Person)の流動性である。これらはすべて国際化の範疇に属する。ということは、資本主義は貿易を筆頭に自ずからグローバルな様相を持っていて、当事国にとってはこれらのどれを選択してグローバル資本主義競争に参加するかの問題になる注2)

高度成長期以降の日本では、太平洋戦争で生き残った技術者集団が核となり、造船、家電、自動車、パソコンなどの情報機器や医療機器などの独自商品により、グローバルな競争に勝利した。1970年代に国内石炭依存を止め、ほぼ100%輸入の石油を資源とした工業社会が誕生した。

そこでは資金と情報には欠けていたが、企業人の優秀さと商品性能の良さにより、高度成長期を挟む20年間ほどは日本型資本主義の隆盛期が続いた注3)

人の資質が変わった

しかし何事にも「歴史の偶然」があり、隆盛期以降1990年代からの日本では、自然災害、大恐慌、バブル崩壊、人口減少、少子化と高齢化の進展、犯罪の多発などにより、徐々に資本主義の活力を落とし始めた。当時の日本を代表するような一流企業の倒産が教えたのは資源不足でも情報の質の変化でもなく経営の失敗であり、そこには戦中戦後世代に属す経営者の資質が問われた。

加えて、政治家の質は低位安定が続き、かつては政治三流、経済一流のかじ取りができた官僚の能力もまた疑問視されるようになった注4)。大学教育でも同じであり、研究教育条件の悪化が、研究成果を出しにくくした。「人の資質」が各方面で問い直される現状にあり、21世紀の今日まで続いている(森嶋、1999:4)。

その意味では、『新しい資本主義案』の筆頭に「人への投資」があげられたことはともかくも評価していい。

ただし、「資本主義」ならば必ず諸分野に「格差」がある。なぜなら、市場における企業間の「競争原理」が貫徹するからである。競争すれば、勝敗が決することが多い。そのため勝ち組負け組が発生して、そこから格差が生じることになる。

「資本主義の格差」への配慮が乏しい

しかし「新しい資本主義」では、諸格差への対応が描かれていない。そうすると、「新しい資本主義」でもこれまで作って来た諸格差は残ったままになる注5)

① 産業格差……先端的リーディングインダストリー群と20世紀産業群
② 企業格差……グローバル企業と中小零細企業
③ 大学格差……先端的研究大学院とfランクの大学
④ デジタル格差……世代、企業、学校の格差をなくす戦略
⑤ エネルギー格差……「再エネ」の不安定出力と火発・原発の安定性
⑥ 官民格差……官官格差と民民格差も激しい
⑦ グリーンとクリーンの格差……グリーンウォッシュにすぎない
⑧ 選択と選抜による格差……「新しい資本主義」では肯定した
⑨ 一極集中と多極集中……ともに格差の温床で、正しくは「多極分散」
⑩ 農業従事者の平均年齢に見る高齢化格差の存在……足腰の強い農林水産業の構築(『新しい資本主義案』28頁)
⑪ 洋上風力による「適切な海域利用」……解体廃棄の「外部性」により環境破壊注6)

『新しい資本主義案』の概要と限界 (1)資本主義のバージョンアップ

危機管理リスクが増大する時代

1960年代の公害問題を解決した日本の資本主義は、1980年代から2000年代にかけて、経済的格差、気候変動問題、経済安全保障リスクの増大、人口集中による都市問題の顕在化、市場の失敗などの弊害を生んだ注7)。加えて、2020年1月からの新型コロナウイルス感染症拡大により、「国民の健康」と「国家の経済安全保障」の両者に「危機管理リスクが増大している」(『新しい資本主義案』:1)。これらの諸問題の位置づけは正確である。

しかしその対応に際しては、「市場も国家も」すなわち「新たな官民連携」が真っ先に主導され、「課題を障害物としてではなく、エネルギー源」と捉え、「新たな官民連携」によって解決する、としている(同上:2)。ただし、この意味についての説明は不十分である。

その先にあるのは、本文で繰り返し登場する「誰一人取り残さない」ような「持続可能な経済社会システム」の再構築である。とりわけ優先されるのは、「エネルギーと食料」の経済安全保障である。

農家の世帯主の平均年齢は68歳

たとえば、『新しい資本主義案』では「足腰の強い農林水産業の構築」(28頁)が謳いあげられて、「食料自給率の向上を図る」とされた。果たしてこの執筆者は、現代日本の農業従事者の平均年齢を知ったうえでこの内容を書いたのだろうか。また、有識者会議では、これについて異論が出なかったのだろうか。

農家世帯主の高齢化率の高さは20年以上前から周知の事実であった。ちなみに、農水省のホームページ「農業労働力に関する統計」はそれを細かく教えてくれる。

一つのデータベースは2020年の「農家全数調査結果」であり、それによると、農家の世帯主の平均年齢は67.8歳であった。またサンプリングに基づく2021年の「標本調査」でも平均年齢は67.9歳となっていた。すなわち、今日の農業労働力の主力の年齢は68歳なのである。

また、農業の後継不足も数十年も前から嘆かれていた。同時に日本の食料自給率が先進諸国との比較で見ても、38%程度に止まっていたことも周知の事実であった。

日本農業の長年の課題への無配慮

このような日本農業の長年の課題(農家世帯主の高齢化、後継者不足、食料自給率が40%に届かない)について一顧だにしないで、「ⅰ. みどりの食料システム戦略の実施」として化学肥料を低減して、有機農業を推進し、「環境負荷低減」を推進するという目標を掲げてはいるが、その担い手として誰を想定しているのか。

農水省の役人や有識者会議の15人が実際の農業現場で働かないのは確実だが、まさか平均年齢が68歳の農家の世帯主にあと10年がんばれというのだろうか。

農林水産物・食品の輸出拡大は「食料安全保障」なのか

加えて、「ⅱ. 農林水産物・食品の輸出拡大」では2030年5兆円達成が目標とされ、2025年2兆円の達成を目指すとある。ロシアによるウクライナ侵略戦争の結果、世界的な農産物の輸出入が途絶えがちな今日、外向きの輸出だけを優先して、内向きの国内での農業生産物の増産をなおざりにするとしか読めないようなプランでは、食料をめぐる「経済安全保障」が達成されるとは思われない。

水田の米や畑での麦、大豆、小豆、野菜などの農業生産の主力は、今後とも高齢化した世帯主を中心としたアナログ思考の農家ではないのか。この状況に真剣に取り組み、国産で安定した農産物の供給こそが求められる時代に、「輸出にチャレンジする事業者の投資を促進する」(同上:29)ことが、本来の「食料安全保障」にどう結びつくのか。

このような私の疑問の他に、特に「食品の輸出」については、「輸入原料を使った加工食品が多く、本当に国産の農産物といえる輸出は1000億円もない」(鈴木、2022:13)という専門家からの批判が行われている。

農業経済学からの「食料安全保障」論

農業経済学者・鈴木宣弘の「食料安全保障」論では、日本農業への問題点がいくつもあげられていて、参考になるところが多い。

まず「ウクライナ危機」で、世界的な「食料争奪戦」が始まったという時局認識がある。カロリーベースで日本の食料自給率が40%に届かない現実を考慮すれば、政府の基本方針は普遍的な「自給率向上」を狙うことになろうが、実際には個別的な「農産物輸出」と農業の「デジタル化」しか語られていない。ここに政府の「危機管理能力」の欠如があるとみなされた(鈴木、前掲論文:13)。

デジタル化の限界

『新しい資本主義案』の著しい特徴として、全編にわたりデジタル化が被さっていることが読み取れるが、ここでも「ⅲ. スマート農林水産業」が登場する。確かにデジタル化を受け止めるのは若者ではあるだろう。スマート農業機械のシェアリングでも「人材育成」は欠かせないが、デジタル技術だけでは農林水産業は成り立たない。なぜなら、アナログ世代の農家世帯主の経験、知識、知恵などが農業レベルを維持してきたからである注8)

デジタル技術を実装した「スマート農林水産業」の推進のため、「地域コンソーシアム」の形成が言及されているが、近代農業の100年の経験で培われてきた高齢の農業従事者が保持する経験、知識、知恵を無視しては、何も生まれないことは容易に想定される。これでは「資本主義のバージョンアップ」にはつながらない。

したがって、「まずやるべきは輸出振興でなく、国内生産確保に全力を挙げること」(同上:13)につきるであろう。

「食料、種、肥料、飼料」の「自給率」の向上が最優先

第二の問題は、「国内農業が縮小し、有事に耐えられない事態を招いたのに、さらに貿易自由化が必要だというのは論理破綻」(同上:14)だという点にある。「根本的な議論」が抜け、「根幹となる長期的・総合的な視点が欠落している」(同上:14)。

なぜなら、危機の真ん中では「飼料」や「肥料原料」の外国からの調達ではなく、「食料、種、肥料、飼料」の「自給率」の向上しかありえないからである。まさしく「輸入前提の経済安全保障」は破綻した(同上:14)。

真逆の方針は「最大の国難」を招く

第三の問題は、「有事突入で国産振興策こそが急がれるはずの今、……政府は(中略)コメや牛乳の減産要請」(同上:16)しているという真逆の対応にある。特に北海道の酪農家ではたびたび生乳が捨てられて、テレビニュースにもなっている。政府による減産要請は確かに「農家の意欲を削ぐ」(同上:16)行為である。

加えて第四として、コメの減反政策だけではなく、「麦、大豆、野菜、そば、エサ米、燃料などの生産資材コストの急騰」を横目にして、「国産の農産物価格は低いままで、農家の赤字が膨らんでいるのが放置されている」(同上:16-17)。これでは鈴木がいうように、「亡国の財政政策」であり、「最大の国難」である。

結論として、ロシアによるウクライナ侵略戦争を前提に鈴木は、「食料、その生産資材、エネルギーを極度に海外依存している日本の危うさ」を憂いて、政府に「危機意識があるのか」を問いかけた(同上:17)。

以上、5点を簡単に紹介したが、「食料の経済安全保障」はいずれも身近で優先順位が高い論点になるので、各方面での議論が求められる。そうしないと、新しい資本主義の前提とされた「食料を含めた経済安全保障の強化」ができなくなる。

『新しい資本主義案』の概要と限界 (2)新しい資本主義の考え方

成長と投資

『新しい資本主義案』では、「成長」特に「持続可能な成長への投資」が重視された。なぜなら、「成長の果実が、地方や取引先に適切に分配されていない」(『新しい資本主義案』:3)からである。分配ができないのは、「目詰まり」があるからで、この解消が課題とされている。分配の対象は「分厚い中間層」とされたが、分厚かったのは1970年代までであり、それ以降は徐々に細り始め今日に至っている。

「中間層が潤う」ように、「格差の拡大と社会の分断」を回避するといわれる(同上:3)。これは正しいが、その方法は描かれていない。賃上げ、中小企業への取引適正化などのフロー面、そして教育・資産形成などのストック面の両方から中間層への分配が書かれただけである。

社会移動論

これでは「分厚い中間層」はできない。なぜなら、階層を上昇したり下降したりする「社会移動」の観点がそこでは皆無だからである。

社会学における社会システム論の立場から階層論を一瞥してみよう。「社会階層とは、社会的諸資源―物的資源(富)・関係的資源(勢力および威信)・文化的資源(知識や教養)の三つ……(中略)が不平等に分配されている状態である(富永、1986:242)。分かりやすいアウトプットは、富、勢力、威信、知識、教養であるが、個人にも集合体にもすべてに過不足がある。富があっても威信に乏しく、知識があっても勢力には程遠い。

階層論の中心課題は、定義上不可欠な分配の「不平等」が著しいのか、もしくは緩やかなのかにある。1975年前後の「国民総中流」時代は緩やかな「不平等」であったが、80年代から21世紀の今日まで格差が拡大して、厳しい「不平等」状態、すなわち「格差」が続いてきた。これは社会移動が停滞したことと同義である。

階層の測定

階層的地位は、「所得・教育・職業威信・権力(または勢力)」(富永、1986:249)などを個人単位で測定するしかないが、今日までの蓄積は「所得・教育・職業威信」のみであり、権力(または勢力)の測定はできていない。したがって、「総中流」でも「格差拡大」でも、調査票では「所得・教育・職業威信」を使って判断してきたことになる。ただし、ここでも所得と教育間、所得と威信間、教育と威信間でそれぞれに非一貫性が認められる。

階層の研究は社会移動とセットで行われることが多いため、移動機会が平等か、制限されているかに研究者の焦点がある。アメリカの事例ではあるが、ミルズによれば、「中規模都市における階層構成が一般的に分極化される中で、上層部と下層部はますます固定化しつつある」(ミルズ、1963=1971:235)の初出は実に1946年であった。

また、上昇移動の動きが阻まれたことで、「下層階級は、その世代限りのものではなくなり、半永久的現象となった」(ガルブレイス、1992=2014:50)というアメリカでの総括もある。

日本では明示的に指摘されないが、ガルブレイスの「下層階級なしには社会は機能しない」(同上:41)は大都市のいわゆるダーティワークを見据えた指摘である。「アメリカで、下層階級は現代資本主義においてなくてはならない下積みの役割を担ってきた」(同上:47)は、マクロ経済社会学の観点から捉えられた実態を鋭く摘出している。

日本の階層研究が地域社会から離れた現在、ガルブレイスのような地域社会レベルまで含んだマクロ社会志向の重要性が改めて強調される。

世代間移動

日本の世代間移動でいえば、子どもの階層は親の階層に影響されるかどうかが問われた。世代内移動では、初発の階層的地位に現在の階層が影響されるかされないかが重視された。

1955年から「国民総中流」だった1975年までは、世代間移動率は非常に高いが、世代内移動は総じて低いという総括が可能になる(富永、1986:251)。階層的地位を細かくいえば、「彼の父の職業、彼の父の教育、彼自身の能力や意欲、彼の学歴、彼の初職」(富永、1986:251)である。

75年までのSSM(社会階層と移動)調査では、(ⅰ)父の職業・教育がその子供の階層的地位を決定する度合いは大きくない、本人の地位決定には(ⅱ)本人の教育が初職を決定して、その初職が現職を決定するという経路が大きな意味を持っていた(同上:252)。

1975年のSSMデータ分析からの結論は、「日本社会の階層構造が中間層肥大型に近い分布をもっていると結論することはできる」(富永、1979:480-481)というものであった。

1990年段階でも平等度が高い社会

1990年段階でも、要約的に「現在の日本社会は、微視的にみると多様な人びとからなっているが、巨視的にみると平等度の高い社会が実現されている」(富永、1990:376)という総括がなされていた。この指摘はたとえば当時までのデータによる図1でも説明可能である。

出典:厚生労働省大臣官房統計情報部編『国民生活基礎調査(平成25年)の結果からグラフで見る世帯の状況』2013年
※注「ややゆとりがある」と「大変ゆとりがある」を合計して「ゆとりがある」とした

「生活意識」で「普通」という回答が、1986年で49.7%、1992年では57.3%になった頃が「国民総中流」として「巨視的な平等度」の高い社会が浮かんでくる。しかし、その後はいわゆるバブルがはじけて、「大変苦しい」「苦しい」が徐々に増えてきて、2010年では約59.4%がここに集まり、2013年でも59.9%になった。

『アンナ・カレーニナ』の冒頭と同じ状況

富永の総括から30年経過した今日では、社会変動としての階層構造も変動したので、「国民生活基礎調査」からのまとめも大きく書き換えられることになる。富永の文章を利用すれば、「微視的にみても多様な人びとがいるが、巨視的にみると格差が大きな社会になった」といえるであろう。

トルストイ『アンナ・カレーニナ』の冒頭「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は不幸のさまもそれぞれ違うものだ」(トルストイ・原卓也訳、1875-77=1964:5)。この表現は大きな格差社会となった21世紀前半の日本社会でも当てはまるであろう注9)

これはいわば実感的な表現であるが、計量的にみるとその後のSSM研究ではどう表現しているか。

階層と格差の計量的研究

たとえば2005年の結果を中心に分析した石田と三輪は「近年の格差拡大を強調したいがため、過去(例えば、高度経済成長期)の日本は開放的な社会であったかのように主張する言説は、必ずしも正しくない」(石田・三輪、2011:15)と結論した。

同時に「格差社会論が華やかな1990年代以前の時代も日本は格差社会であり、『一億総中流』であったわけではない」(石田・三輪、2011:22)とものべている。

比喩レベルの「一億総中流」

それは当然であり、厳密な意味で当時も今も「一億総中流」を信じた人がいたとは思われない。

これはあくまで比喩レベルの話であり、当時でも農家、建設業、製造業、小売業、金融保険業などの所得格差(表1)はあったし、母子家庭が貧困になりやすかった事実もある。しかし、相対的には1990年の富永の総括は的を射ていたと考えられる。

農家が相対的に豊かだった高度成長前半期

ただし、通説とは異なり、産業別の収入を比較しても農家の相対的豊かさが理解できる。高度成長期の中盤までは、日本の農家の年収は高度成長の牽引力となった諸産業で働く一人当たりの年収(月収の12倍)よりもはるかに多かった注10)

ここで注意しておきたいことは、現在の観点から見た「農業が苦しいから」や「農家収入ではやっていけないから」という説明は、当時の実情からすると誤解をまねきやすい点である。

出典:矢野常太記念会編、2006:121。ただし農家収入は農業所得、農外所得、年金・被贈の合計である(同上:94;199)。

コミュニティ論のレベルでいえば、高度成長中期までは経済的に見ると、「都市へ去るも地獄、農村に残るも地獄」では必ずしもなかったのである。地方が貧しいから豊かな東京や大阪へ出かけて働くという動機付けは、高度成長前期1960年前後までは弱かった。なぜなら、「貧しい農村」と「豊かな都市」という対比の成立は、1970年の高度経済成長の頂点期になって鮮明になるからである。

そしてこれはまた、閉鎖的な村落空間からの若者の解放を意味した。「集団就職列車」が上野駅を目指した時、それに乗車した中卒の若者の行く手には、農業とは異なる多様な産業が待っていて、都会の開放された空間もまた若者を喜んで受け入れたのである。

若者が上層移動できる機会こそ未来を拓く

その時代では高学歴を求めた若者だけではなく、中卒後に集団就職で上京した若者にも生活機会と生活様式の変容を可能にするチャンスが大都市で提供された。それから約20年間の「国民総中流」の神話は、いわば社会移動の上昇ルートが固定されておらず、閉鎖化もしていない時代の賜物であった。

翻って40年後の今日では、高学歴がもはや機能せず、大学を卒業しても「非正規雇用」に甘んじる若者が増加して来た。したがってその対応は、デジタル化(DX)や脱炭素化(GX)への投資だけで可能であるとは思われない。

新たな「官民連携」では、「リスク」、「リターン」、「インパクト」の測定(『新しい資本主義案』:3)とともに、「上昇移動」(upward mobility)の機会を用意することにも配慮がほしい。そうしないと、せっかくの「人への惜しみない投資」(同上:3)が空転してしまうからである。

これを避けるには、基礎教育における一般的投資と高等教育での選択的重点投資を組み合わせて、諸分野における正規雇用の枠を広げて、次世代による社会参加のルートを拡充することである。そこに「新しい資本主義」が胎動する可能性も広がるであろう。

(次回:政治家の基礎力(情熱・見識・責任感)⑪)

注1)もっともEUのその後を見ると、エネルギー資源とイデオロギーとの二者択一に悩む国も複数出ている。

注2)国連に象徴されるような世界的なグローバルの動き、そして世界企業のキャッチコピーとして使われている「グローカル」な展開のなかで、5大陸各地における諸国連合として数か国が連携する「ローバリゼーション」が顕在化したことについては、連載2「政治理念:ローバル時代の政治家」(2022年5月1日)で触れている。

注3)いわゆる「経営家族主義」全盛期の時代でもある。

注4)私のテーマに関連していえば、「ゆとりある教育」(文部科学省)と「少子化対策」(厚生労働省)の失敗が指摘できる。

注5)現在でも階層格差はあるが、これは前近代社会=封建社会などのような出自による身分格差とは違い、資本主義社会特有の本人の業績(achievement)に左右される格差である。ただし、業績主義社会でも出自や姻戚や大学の同窓といった帰属(ascription)の原理が作動することは珍しくない。個人の階層格差はつねにこの両者が混在するから、ここでは考察の対象としない。

注6)「新しい資本主義」論では、これら10の格差を個別的にも総合的にも考察したいが、それは他日を期したい。

注7)このうち『新しい資本主義案』における「人口集中による都市問題の顕在化」だけは違和感が残る。これが日本全国で普遍化したのは1970年代までであり、その後は東京一極集中だけの顕在化であるために、他のリスクと横並びにはなりえない。

注8)アナログとデジタル、レトロとモダンとポストモダン、合理性と非合理性、業績性と帰属性などが現実の資本主義社会システムでは共存している。マンハイムのいう「非同時的なるものの同時性」を受け止めて、そこから普遍性を探求するしかない(マンハイム、1935=1976:26)。

注9)児童虐待死が発生した家族でもその内実は実に多様である(金子、2020).

注10)農家の比較対象である建設業ほかは、従業者30人以上の一人当たり産業別月間収入を12倍に修正した(金子、2009:105)。

【参照文献】

  • Galbraith,J.K.,1992,The Culture of Contentment, Princeton University Press.(=2014 中村達也訳『満足の文化』筑摩書房).
  • 石田浩・三輪哲 ,2011,「社会移動の趨勢と比較」石田ほか編『現代の階層社会2 階層と移動の構造』東京大学出版会:3-19.
  • 石田浩・三輪哲 ,2011,「上層ホワイトカラーの再生産」石田ほか編『現代の階層社会2 階層と移動の構造』東京大学出版会:21-35.
  • 金子勇,2009,『社会分析』ミネルヴァ書房.
  • 金子勇,2020,『「脱け殻家族」が生む児童虐待』ミネルヴァ書房.
  • Mannheim,K.,1935,Mensch und Gesellschaft im Zeitalter des Umbaus,Leiden A.W.Sythoff’s Uitgeversmaatsschappy N.V.(=1976 杉之原寿一訳「変革期における人間と社会」樺俊雄監修『マンハイム全集5 変革期における人間と社会』潮出版社):1-225.
  • Mills,C.W.,1963,Power,Politics and People,(ed.)by I.L.Horowitz ,Oxford University Press.(=1971 青井和夫・本間康平監訳『権力・政治・民衆』みすず書房).
  • 森嶋通夫,1999,『なぜ日本は没落するか』岩波書店
  • Streeck,W.,2016,How Will Capitalism End?Essays on a Falling System,Verso.(=2017 村澤真保呂・信友建志訳『資本主義はどう終わるのか』河出書房新社).
  • 鈴木宣弘,2022,「食料安全保障とは何か」『UP』No.596 東京大学出版会:12-17.
  • 富永健一,1979,「日本の階層構造の要約と今後の研究課題」富永健一編『日本の階層構造』東京大学出版会:475-488.
  • 富永健一,1986,『社会学原理』岩波書店.
  • 富永健一,1990,『日本の近代化と社会変動』講談社.
  • トルストイ,1875-77=1964, 原卓也訳『世界の文学19 アンナ・カレーニナⅠ』中央公論社.
  • 矢野常太記念会編,2006,『日本の100年 改定第4版』同会.

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