みんなの力を合わせて一つのことを成し遂げると絆が深まる。お互いを認め合い、助け合う。ひとりずつバラバラの人間が集まって、同じ目的に向かって力を尽くす。それは素晴らしいことである。
と、思うのだが、フリーライターの仕事をしている自分には「みんなで何かを成し遂げる」という機会がなかなかない。私は運動が苦手だから、当然チームスポーツもすることがない。
そこで、大きめのダンボールをみんな運んでみるのはどうだろうと考えた。中身を空っぽにすれば重くない。最後はコンパクトに畳んで持ち帰れるし、これはいいんじゃないか。
近所のコーナンにダンボールを買いに行く
知人が先日、初めてキャンプをしてきたという話を聞かせてくれた。知人の夫がキャンプに興味を持ち、家族みんなで行くことになったらしい。テントやらなんやらを購入したり、初期費用もバカにならないから知人は気が進まなかったが、一度ぐらい経験してみるのも悪くないかと思った。
で、行ってみたところ、結果的にはすごく楽しかったという。初心者向けのキャンプ場を利用したそうだが、それでも、テントを張ったり、ご飯を作ったり、何もかも家族で協力し合わなければならない。普段はバラバラに行動している家族が、一つの目的に向かっているという一体感があり、それが新鮮だったという。来月も再来月も行く予定だと、知人は楽しそうだった。
私はその話を聞き、とてもうらやましいと思った。しかし同時に、ものぐさな自分にとってキャンプをするということのハードルの高さも感じていた。そしてこう思った。「中身の無いダンボールを運ぶぐらいだったらできるんだけどな」と。
思いついたその日は一回寝ることにして、翌日、もう一度考えた上で、やってみることにした。大きめのダンボールを用意し、友人たちと一緒に運ぶ。それだって一つの目的に向かってみんなで力を合わせる行為に変わりはない。きっと一体感や達成感が生まれるはずだ。
私はすぐに数人の友人に声をかけ、その勢いで近所のホームセンターにダンボールを買いに行くことにした。
まず分かったのが、ダンボールを持ち運びながら自転車を漕ぐのは無理、ということだ。小さいサイズなら工夫次第でなんとかなるかもしれないが、大きいものだと片方の手で常に支え続けなければならないし、風を受けて思わぬ方に持っていかれそうになったりして、単純に危険である。ダンボールって身近なものに感じるけど、大きくなると割と手に負えないことを知った。
乗って帰るのをあきらめ、片手でダンボールを支え、片手で自転車を押しながら、かなり時間をかけて帰宅した。
ダンボール仲間たちと土手に集まる
よく晴れた週末、友人たちが駆けつけてくれた。「大きめのダンボールをみんなで運びたい」ということは知らせてある。それでも来てくれたのだから優しい。
ヤマコさんは家を出る前、奥さんに「何しに行くの?」と聞かれ、「なんか、ダンボール運ばされに……」と言い淀んだという。余計なストレスをかけてしまい本当に申し訳ない。
大阪市内、JR桜ノ宮駅前から淀川の河川敷を目指す。ダンボールをみんなで運ぶというような行為が人の迷惑になってはならない。できるだけ広い場所で、通行の邪魔になる可能性を排して実行したいものだ。
広い河川敷に出た。「みんなで空っぽのダンボールを運ぶ」ということしか決めていなかったから、当然ゴール地点があるわけでもない。「3時間は頑張ってみよう」と、ざっくりとした目標を定めた。
「これ、合体させたらちょうどいい大きさになるんちゃいます?」とヤマコさんが提案してくれた。なるほど、そうしてみよう。
いよいよ、俺たちのダンボールを運び出す
箱ができあがり、ついにダンボール運びが始まった。繰り返すが、中身はまったくの空っぽであるから、持ち上げるのはそれほど大変ではない。しかし、サイズが大きいので、一人持つのはちょっと大変、3人だとかなり楽、4人で運ぶとめちゃくちゃ楽になる。
厳密なゴールのない行為なので、無理をする必要はない。疲れたらすぐに休憩することを決め、淀川の上流方向に向かって運んでいくことにする。
「ちょっと!ナオさんも運んでくださいよ」と声がかかり、ようやく私もダンボール運びに参加。
ダンボール運びに参加した瞬間、笑ってしまった。めちゃくちゃ軽いのである。空なのだから、当然だ。これは楽だぞ!
予想以上に楽しくなってくる
色々な角度から写真を撮って気持ちが落ち着いたところで、きちんと、4人でそれぞれの隅を持って運んでいくことにする。ダンボールの上にICレコーダーを置き、その時のみんなの会話を記録してみた。
「あ、みんなで4隅を持つと安定感が違いますね」
「安定しますよね。でもこれ結構、風の影響を受けますね」
「あっちまで真っ直ぐ行ったらどこに着くんだろう」
「どこだろう、守口市の方かな」
「さっき撮った写真を見てみたら、なんか不思議な映画みたいでしたよ」
「鳥の声、きれいだな」
「天気のいい日でよかったですよね」
「この草、僕の田舎では『ホウチョウクサ』って言ってたんですよ。手が切れるから」
「へー!」
「使ってないんじゃないですか?もう」
「あ、電車通ってますよ!」
「これ、ダンボールがあるから自然といい距離感になりますね」
「ソーシャルディスタンスですよ」
「でもこれ以上、離れることもできない」
「結構色んなスポーツしてる人いますね」
「僕らのこれも新しいスポーツに見えるかもしれないですね」
と、こんな話が、延々録音されていた。鳥たちがピーチクパーチクと鳴き交わしているような、やけに楽し気な会話に聞こえた。
遠くから撮影するといきなり物語性が生まれる
土手の上に登れる階段があったので、無理を言って三人に上がってもらった。土手の上をダンボールが運ばれていく様子がどうしても見てみたかったのだ。
雰囲気のある写真が撮り放題である。青い空と緑と、ダンボールの色の対比がいいのかもしれない。
さらに進んでいくと大きな橋が見え、そのたもと付近にコンビニがあることがわかったので一休みすることにした。アイスと飲み物を買って涼む。
みんなで運ぶダンボールはお神輿であり、車
しっかり休憩をとり、再びダンボールを運び出す。ふとした思いつきで、ダンボールの上にスマホを置き、各自が好きな曲を一曲ずつかけていくことにしてみた。
スピッツが大好きなはやとさんが、『ロビンソン』をかけた。
多くの人が口ずさめるであろうあのポップなメロディ、みんなで歌いながら一つのダンボールを運ぶ。それぞれが少しずつの重さを分け合って、同じ方向を目指しているという幸せ。私はなんだかすごく満ち足りた気分になった。
これはひょっとしてお神輿に近いのではないか、と思った。いや、由緒ある本当のお神輿に対して失礼だとは思うのだが、かつて、町内会のお祭りでよくお神輿を担いでいる私の親友が「お神輿は神事なんだけど、儀式としての意味の前に、町の人がみんなで結束することが大事だと思うんだ」と、そんなことを話してくれたことがある。このダンボールに由緒はまったくないが、みんなを束ねる力を少しは持っているのかもしれない。
「いやー!やっぱりスピッツ最高っすね!」などと私がはしゃいでいると、ポケットの中のスマホの「Siri」がいきなり反応して、スピッツの『君が思い出になる前に』が自動的に流れ出したので驚いた。「これはもう、神の仕業でしょ!」とみんなでさらにはしゃぐ。わっしょい、わっしょい、スピッツ神輿だ。
今野ぽたさんが「距離感のせいか、一緒の車に乗ってる感じもありません?」と言った。なるほどたしかに、ドライブしながらみんなで一つの曲を聴いてどこかへ向かっているような、そんな感覚もある。4人が乗客であり、一つ一つのタイヤでもある。
みんなで運ぶダンボールは神輿!そして車!そんなことがわかってきた。
楽しい時間の終わりが近づいてきた
「とりあえず3時間ほど歩いてみよう」と、そんなゴールを設定したダンボール運びだったが、気づけばあっという間に終わりの時間が近づいてきた。不安になった私はみんなに「どうでしたか?」と聞いてみた。
「いや、よかったですよ今日」
「またやりたい。呼ばれたら来ますよ」
「これは発見ですよ。ダンボーリングの」
「ダンボーリングか、運びングか」
「運びながら聴くスピッツがめちゃくちゃよかったですよ」
「っていうかこんなスピッツのMVがあっても不思議じゃないですよね」
「ははは。ただみんなで川べりをダンボール運んで歩いてるっていう」
「仲良くなれた気がしましたよ」
「ピクニックするのと違って、風景が動いていくじゃないですか。それがよかった」
と、おおむね好評だったようでホッとした。
土手の上に登って行くとベンチがあったのでそこを我々のダンボールの終着点にした。運んできたダンボールをここで解体する。
解体したダンボールの底に紙切れが見える。ダンボールを組み立てる時、私がこっそり入れておいたものである。
広げてみよう。
そう、私たちは空っぽのダンボールを運んできたのではない、仲間への思いやりを運んできたのだ!
「うわ、うぜえー!」とはやとさんに一喝された。
最後に改めて一言ずつ感想コメントをもらった。
はやと「スピッツが聴けてガリガリ君食べれて、楽しかったです!」
今野ぽた「ただ河川敷を歩くだけではない景色の見え方だったなと。ドライブに近い距離感で、みんなでやってるなって感じがしてよかった」
ヤマコ「歩けるなー!と思いました。会話も途切れないし、いい距離感だった」
「よどがわ」と書いた大きな看板があったのでセルタイマーで記念写真を撮った。
地下鉄の大日駅が近くにあったので、そこまで歩いてそれぞれの方向へ解散した。打ち上げもなく、ただ純粋にダンボールを運んだだけというのが潔くていい。後日、ヤマコさんがGPSで計測してくれたところによると、私たちはダンボールを運びながら8kmもの距離を歩いていたらしい。
折りたたんだダンボールを家に持って帰ったのだが、特に愛着が湧くでもなく、それはどこまでもただのダンボールで、それが面白かった。古本の買い取りサービスに使おうと思う。
中身のないものを運ぶ。それは生産性を度外視した、一見するとどうでもいい行為である。しかし、みんなでダンボールの隅っこを支え合った手の疲労感は、悪くないものに思えた。キャンプから得られる楽しみとはもちろん違うだろうけど、なんだか妙な、クセになるような体験だった。