ジュネーブに本部を置く国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が11日公表したところによると、ロシア軍の武力侵攻から逃れるために250万人以上のウクライナ人がポーランドなど隣国に避難したという。その数は今後も増え続けると受け取られている。
ロシア軍のウクライナ侵攻から14日で19日目を迎えた。ロシア軍は首都キエフ市周辺を包囲している。ウクライナ南部のマリウポリ市では、シリア北部アレッポや西部ホムスでの戦闘と同じように、民間人を無差別殺害し、ビルや住居を空爆で破壊している。
一方、ポーランドなど西側に近い同国西部リヴィウ市はこれまでロシア軍の攻撃から比較的安全だと思われてきたが、ロシア軍は13日、黒海の艦隊からミサイルを撃ち込んできた。そしていよいよウクライナ最大の湾岸都市オデッサ市に迫ってきた。ロシアが併合したクリミア半島にはロシア軍が待機し、黒海にはロシア艦隊が結集している。ウクライナ3番目の都市、人口約100万人のオデッサ侵攻はもはや時間の問題となった。
オデッサ市には、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)前は米ニューヨーク、ポーランドのワルシャワに次いで世界3番目に大きいユダヤ人コミュニティがあった。同市だけで当時、40以上のシナゴークがあったという。
ウクライナのユダヤ人は波乱の歴史を体験してきた。帝政ロシア時代のポグロムや第1次世界大戦後、ウクライナに入ってきたナチス・ドイツ軍はユダヤ人コミュニティをほぼ壊滅させていった。オデッサ市だけで約10万人のユダヤ人が犠牲となった。独週刊誌シュピーゲル(3月5日号)によると、ナチス・ドイツ軍はウクライナ全土で100万人以上のユダヤ人をガス室に送ったり、飢餓死させたりしたという。スターリン時代に入っても、多くのユダヤ人が粛清されている。
ロシア軍の侵攻が報じられると、オデッサでは国外に避難していく人々が増えた。同市には約3万5000人のユダヤ人が住んでいたが、国外に素早く避難していったユダヤ人も出てきた。ウクライナの都市の中でもリベラルな風潮があり、活気のあったオデッサ市も「幽霊の住処のような静けさ」(シュピーゲル誌)が支配し、レストランやカフェは閉鎖されてきたという。
オデッサのユダヤ教ラビ、アブラーム・ボルフ師は自身の管轄に住む116人の子供たちをロシア軍の攻撃から守るために、バスでドイツに避難させた、というニュースが報じられた。ベルリンに到着したユダヤの子供たちをドイツのシュタインマイアー大統領が歓迎している場面がニュースで放映されていた。また、オデッサの音楽家たちがロシア軍の侵攻に抵抗するウクライナ兵士を鼓舞するためにストリートでコンサートをしている姿が報じられた。
ちなみに、ボルフ師は他の5人のラビと共に2019年5月、ウクライナで初めてユダヤ人の大統領が選出されたゼレンスキー大統領を表敬訪問した。大統領はひげの長いラビたちの姿をみて最初は驚いたという。若い世代のゼレンスキー大統領は超正統派ユダヤ人をこれまで見たことがなかったからだ。ボルフ師らは大統領に「モーセ五書」をプレゼントしたという(シュピーゲル誌)。
ボルフ師は国外に避難する考えはないという。ホロコーストで生き延びた高齢のユダヤ人たちに対しては、家族の人々に「彼らに戦争のニュースを見せないように」と伝えている。人生の最後の日々を控え、また国外に逃げるということは余りにも悲惨だという配慮からだろう。
歴史に翻弄されるオデッサのユダヤ人のことを考えていた時、イスラム原理主義勢力タリバンが昨年8月、アフガニスタン全土を掌握した時、アフガンに住んでいた最後のユダヤ人が米国に移住したというニュースを思い出した。アフガンには20世紀初頭、約4万人のユダヤ人が住んでいた。イスラエルが1948年、国家を建国した時、アフガンに住んでいたほとんどのユダヤ人はイスラエルに移住した。残った300人余りのユダヤ人1969年、ソビエト軍が介入したことを受け、移住していった。そしてタリバンのアフガン掌握を受け、最後のユダヤ人が避難した。
オデッサのユダヤ・コミュニティの無事を祈りたい。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年3月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。