11月9日は「悲しみと喜びの日」

アゴラ 言論プラットフォーム

ドイツ人にとっては「11月9日」ほど喜びと悲しみ、痛みが重なっている日はないだろう。1989年11月9日、旧ソ連・東欧共産圏での民主化の嵐を受け、東西両ドイツを分断してきた「ベルリンの壁」が崩壊した日だ。旧東西両ドイツの再統合の道を開く歴史的な日となった。それが喜びのほう。

「水晶の夜」の後日(ウィキぺディアから)

旧東独政府は国民に対し、これまで施行してきた旅行や移住制限を緩和する政令を発布。それを受け旧東独国民は「ベルリンの壁」に殺到、1961年にベルリン壁着工から28年後、東西ドイツを分断してきたベルリンの壁は崩壊した(独:Mauerfall)。旧東独の国民が「ベルリンの壁」を越え、旧西独に入っていく姿は忘れることが出来ない歴史的な瞬間だった。そして翌年1990年10月3日、東西ドイツは再統一した。ちなみに、1961年から89年の28年間で約5000人の東独人が壁を越えて旧西独に亡命し、200人以上が国境警備兵によって射殺されている。

一方、悲しみと痛みの日は1938年の11月9日だ。「Novemberpogrome」と歴史家が呼んでいる日だ。この日の夜、ドイツに住む多くのユダヤ人が虐殺された。ドイツでユダヤ人への憎悪、暴力が爆発し、ナチス・ドイツ政権のアウシュビッツ強制収容所、ガス室によるユダヤ人大虐殺へと繋がっていった。直接の切っ掛けはユダヤ人の青年がパリでドイツ人外交官を射殺したことに対し、ドイツ人の怒りが暴発したことにあるが、ナチス・ドイツ政権はこの事件を利用して計画的にユダヤ人抹殺計画を進行させていった。11月9日はその始まりでもあった。

ナチス政権は1938年11月9日、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア(当時)でユダヤ人が経営する7000軒以上の店舗や約250のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)を燃やし、ユダヤ人の墓や学校を破壊。多数のユダヤ人は虐殺され、拘束されていた。歴史家は「Novemberpogrome」(11月のポグロム)と述べ、路上の飛び散ったガラスが夜の明かりを受けて水晶のように光っていたことから、「水晶の夜」(Kristallnacht、クリスタルナハト)とも呼んでいる。翌日の11月10日には3万人以上のユダヤ人が逮捕され、収容所に送られた。

国際アウシュビッツ委員会のクリストフ・ホイブナー副会長は、「ドイツ国民は11月9日のベルリンの壁の崩壊を喜ぶあまり、1938年11月9日のユダヤ大虐殺の日の記憶を吹き消してはならない」と強調、「11月9日は、市民が無関心であるならば、民主主義が崩壊する危険性があること、民主主義を保護し保存するためには人々が必要であることを思い出させる。だからこそ、11月9日は公式の記念日だ。この日は、ドイツでは痛みと喜びが永遠に結びついた日となる」と述べている。

隣国オーストリアでは9日午後、ナチス政権の犠牲となった6万4400人以上のユダヤ人の名前を刻んだ記念碑(ショア・ウォール・オブ・ネームズ・メモリアル)がオープンされる。カロリーネ・エッズシュタドラー(KarolineEdtstadler)欧州・憲法担当相は、「わが国はShoahWallofNames記念碑の形でその蛮行の責任をシンボル的に表現した。犠牲者の名前は、160の記念の壁に消えないように刻まれている。そうすることで、少なくとも部分的には彼らの尊厳を彼らに返すことを望んでいる。この記念碑は、彼らの子孫や親戚が来て、彼らの愛する人について考えることができる場所であり、訪問する人々に、国家社会主義者の憎しみの大きさを伝える場所となるだろう」(同記念碑の公式サイトから)と述べている。

ナチス・ドイツに併合されたオーストリアでは、「ユダヤ人の子供、女性、男性は迫害され、嘲笑され、学校から追放され、家や住居から追い出された。彼らは仕事や職場から解雇され、生計を断ち切られ、すべての持ち物を奪われた。彼らは『ドイツ帝国から追い出す」と脅迫された。

同国では1938年の初めまで約21万人のユダヤ人が住んでいた。当時の国の人口のわずか3%だ。そのうち、約6万5000人はナチス・ドイツ軍が支配する欧州大陸から逃げることができなかった。彼らの多くはダッハウ収容所とブーヘンヴァルト収容所に送られ、そこで亡くなった。

「11月9日」はドイツ、そしてナチス・ドイツ政権に併合されたオーストリアにとって、追悼するのにはあまりにも悲惨で痛みが伴う日となった。その半世紀後の1989年の11月9日、ドイツにとっては東西ドイツの再統合という民族の祝福を得た日ともなった。一方、ナチス政権に併合されたオーストリアは戦後長い間、ナチス戦争犯罪に関与した事実を否定し、戦争の被害者と主張してきたが、1990年代に入ってナチス戦争犯罪に関与したことをようやく認めた。

歴史では忘れてならない日というものがあるものだ。1938年と89年の「11月9日」もその日だろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2021年11月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

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