「ノルウェイの森」という小説がある。村上春樹が書いた5作目の長編小説で1987年に出版された。映画にもなっているし、世界中で翻訳され、何百万部と売れているので、読んだことがなくても、タイトルくらいは誰もが知っているのでないだろうか。
この小説は、37歳になった主人公であるワタナベトオルがハンブルク空港に到着するところから始まる。季節は秋で、着陸した飛行機の中でビートルズが歌う「ノルウェイの森」のオーケストラバージョンを聴く。それを37歳の私が実際に体験したいと思う。ハンブルク空港に到着した飛行機の中で「ノルウェイの森」を聴くのだ。
多くの祭り(フエト)のために
「ノルウェイの森」は100パーセントの恋愛小説だ。主人公のワタナベトオルは高校時代からの知り合い直子に恋をするけれど、彼女は込み入った問題を抱えている。そこに緑という同じ大学に通う女の子が登場し、近所の火事を3階の物干しから見物しキスをする。
直子や緑が登場するのは主人公が大学生だった頃だ。この小説は回想がほぼ全てで、冒頭の20ページくらいだけ37歳になった主人公が登場する。彼は秋のハンブルク空港に着陸する飛行機に乗っている。秋の冷ややかな雨がハンブルク空港には降っていて、「またドイツか」と思う。
飛行機の着陸が完了すると、機内のスピーカーからどこかのオーケストラが演奏するビートルズの「ノルウェイの森」が流れる。そのメロディーは主人公を混乱させる。激しく混乱させ、主人公を揺り動かす。
主人公は両手で顔を覆う。それを心配してCAさんが声をかける。主人公は言う。「ちょっと哀しくなっただけだから」と。そして、思い出す。大学時代という18年前のことを。直子のことを。やがて緑やレイコさん、永沢さんや突撃隊、ハツミさんのことなどを。
私は2022年に37歳になった。ノルウェイの森の主人公と同じ年齢になったのだ。季節は秋だ。ドイツは今日もたぶん雨が降ったり、おそらく誰かが泣いたり、きっと誰かが失くしものを探したりしているはずだ。行ってもいいんじゃないかと思えた。だってせっかくの37歳の秋なのだから。
主人公は「ルフトハンザ」という航空会社の飛行機でドイツのハンブルク空港に降り立つ。今はハンブルク空港への日本からの直行便はない。フランクフルト空港を経由してハンブルク空港に行くことになる。だから私はルフトハンザのフランクフルト経由でハンブルクに行くチケットを取った。
つまり、私は「ノルウェイの森」の主人公と同じ年齢「37歳」、同じ季節「秋」、同じ航空会社「ルフトハンザ」で、ハンブルク空港に行くのだ。そして着陸した飛行機でオーケストラの奏でる「ノルウェイの森」を聴く。私は何を思うのだろうか。主人公と同じように激しく混乱するのだろうか。
体験までの体験
ボーイング747-8はエコノミー席に私を乗せ、曇り空の日本を飛び立った。主人公がエコノミーだったのか否かはわからない。ただ私の稼ぎではエコノミーでも随分と高いと感じる金額だった。以前と比べるとチケットは高くなった。
主人公は「またドイツか」と思う。私は今回が初めてのドイツだ。同じ体験をしに行くけれど、確実に主人公と同じ感想を抱かない点だ。初めてだから「またドイツか」とだけは絶対に思わない。大学でドイツ語の講義も取っていなかった。主人公と私の共通点は年齢と季節と航空会社だけなのだ。
初めてノルウェイの森を読んだのは高校時代だったと思う。その時は自分が37歳になることなんて微塵も想像できなかった。20歳になることだって信じられなかった。今だって信じられない。何も当時から変わっていない。何かの書類に記入する年齢欄だけが毎年一つだけ大きくなり、私は37歳になった。
多くの37歳も私と同じなのかなと思うけれど、全然そんなことはない。働き、結婚し、子供が生まれ。私にはそのような変化もない。本当に時間が平等に流れているのか心配になる。おそらく平等ではないのだ。安部公房が何かの小説に書いていた。平等なのは死ぬことと性病になることだけだと。
主人公がハンブルク空港までの機内でどんなことをしていたのかわからない。暇だな、と思いながら眠くもないのに眠る努力をしたり、使うか否かわからない機内食の写真を撮ったり、スパークリングワインが飲み放題と喜んだりしたのだろうか。主人公からはそんな様子は想像できない。ジャケットを着ていたとすら思う。私のようなTシャツやパーカーではなく。
この記事の問題点は、と考えるといくつも挙げられるのだけれど、一番の問題点はほぼ全て機内の写真で終わることだ。主人公の現在は冒頭でしか記されない。ドイツでのことは何も書いていないのだ。つまりこの記事は、ハンブルク空港で私がオーケストラの奏でる「ノルウェイの森」を聴いたところで終わる、たぶん、おそらく、きっと。
私の僕の話
ノルウェイの森は主人公が大学生の頃を回想するお話だ。そこに直子が登場する。直子との思い出があるからこそ、主人公はハンブルク空港の飛行機の中で「ノルウェイの森」を聴いて、激しく混乱し揺り動かされた。
しかし、私の人生には直子はもちろん緑もいない。とてもいない。だから架空の僕の回想を書こうと思う。せっかくノルウェイの森の主人公と同じ体験をしに行くのだから。
「二本足のユニコーンを見に行くんです」と僕は言った。それを聞いた医者は「そうなんですね、よかったですね」と無感動に何かをパソコンに打ち込んだ。この病院のこの病棟では、そのようなことを言う人は少なからずいて、二本足のユニコーンは頻繁に登場するのかもしれない。でも、僕は本当に見に行くのだ、二本足のユニコーンを。
その後はとても事務的なやりとりをして病院を出て、薬局に行きいつも通りの薬をもらい、家に向かい歩いた。途中の公園に小さな子供を連れた夫婦がいた。風が吹けば倒れてしまいそうな男の子の歩く姿を二人は愛おしそうに眺めた。僕はそんな三人を上手く見ることができない。
家に戻ると彼女が来ていてパソコンの前の椅子に座りコーヒーを飲んでいた。「おかえり、病院はどうだった?」と彼女が言った。「ただいま、いつも通りだよ」と僕は手を洗い、台所の壁に体重を預けた。「二本足のユニコーンを見に行く話をしたけどたぶん信じてくれなかった」
「本当にいるんでしょ?」と彼女は意地悪そうに笑う。「いるんだよ、もちろん骨格標本だよ、今はもう滅びたけど」と僕は真剣に返す。「わかってる」と彼女は椅子を立ち、僕のところにやってきて、僕を抱きしめた。
彼女からはコーヒーと僕が長く求めていた匂いがした。僕は二本足のユニコーンのことを考える。彼らは本当に上手く二本足で歩けていたのだろうか。僕は、と思う。もう歩けると。
なんだ、これは。素晴らしく私にはこんな思い出がない。家に帰って誰かがいたことがない。ただ二本足のユニコーンは本当にいます。次回記事にしたいと思う。
まだハンブルク空港は遠い。フランクフルト空港にも着かない。何度か寝ようと思ったけれど、眠りは訪れなかった。眠りにつきかけることはあったけれど、そのタイミングでCAさんが何かを持ってきた。ありがたく食べた。美味しいと普通の中間の味がした。
本当は上記のような架空の思い出を10個くらい書いたのだけれど、読むのも大変だろうからこの形式で書くのはやめた。事実として、私には主人公のような思い出がないということだけわかればいいと思う。飛行機はやがて暗い空を飛び続けた。
自己紹介
村上春樹の小説には主人公が自己紹介をするシーンがしばしば登場する。ノルウェイの森ではなかったけれど、「羊をめぐる冒険」では耳専門のモデルから10分間の自己紹介を求められ、「ダンス・ダンス・ダンス」でも主人公は自己紹介をしていた。私も自己紹介をしてみようと思う。ハンブルクまではまだ遠い。そのくらいの時間はあるはずだ。
1985年に私は生まれた。だから今年37歳ということだ。九州で生まれ育って大学に行くために上京した。卒業してからはフリーランスで原稿を書いたり、写真を撮ったり、動画を作ったりしている。簡単に言えばこれが私の説明となる。
もう少し今の僕について書こう。37歳だけれど、結婚はしていないし、彼女もいない。僕はとても結婚したいと思っている。でも、それが難しい。結婚はお互い好きだからするのだろう。とてもシンプルな道ではあるのだ。ただシンプルすぎて、そこには標識のようなものがなく、僕は迷い、時が経つと終わりがあるのかわからない工事が始まり通行止めになる。僕はどこにも辿り着けないでいる。
それは悲しいことではあるけれど、誰かが悪いということではない。僕が悪いだけなのだ。収入だって正直に言ってよくないし、仕事だっていつまであるのかわからない。顔と性格はよく言えば普通だろう。優しい人間だとは自分でも思うけれど、優しいだけだ。その先の誰かが望む、あるいは望んでくれようとした世界を僕は見せてあげることができない。いや、誰も何も僕には望んでいないのかもしれない。
この記事のポイントはそんな僕がノルウェイの森の主人公と同じ状況を体験することだ。37歳までの経験は大きく異なる。直子も緑もいない。でも、同じ状況で「ノルウェイの森」を聴くのだ。私は何を感じるのだろう。主人公と同じようなものを感じるのだろうか。あるいは少しも哀しくなく、少しだけ楽しいのかもしれない。
空港はどこにも属さない
飛行機は無事にフランクフルト空港に到着した。ノルウェイの森はまだ聞かない。もちろん機内のスピーカーからも流れなかった。何の音楽も流れなかった。乗客が席を立ち、荷物を取り出し、気だるそうな呼吸をする音だけが機内に馴染んでいた。
時刻は19時を過ぎていた。「ノルウェイの森」では、のっぺりした空港のビルの上に立つ旗や、BMWの広告板が飛行機の窓から見える。何もかもがフランドル派の陰鬱な絵の背景ようだった。私にはそれが見えない。それはここがまだ主人公が降り立ったハンブルク空港ではなくフランクフルト空港であることと、ドイツはすっかり夜だったからだ。
フランクフルト空港からは、国内線に乗ってハンブルク空港へと向かう。つまり、着く頃の夜は十分に深くなっていて、「ノルウェイの森」にある景色は暗くて確かめることはできないわけだ。今のフライトスケジュールではどうにもならなかった。でも、ノルウェイの森を聴ければいいはずだ。
もちろんチケットを取る時に考えた。フランクフルトに一泊して明るい時間にハンブルク空港に着く飛行機に乗る方法もあると。ただそれはやめた。ドイツを初めて訪れる状況がハンブルク空港である必要があると思ったからだ。なぜかは上手く説明できないのだけれど、そう思った。もちろん今フランクフルト空港にいるけれど、空港はある意味ではどこにも属さないのだ。
何かがノルウェイの森を私に体験させたくないのか、フライトスケジュールはズレていた。乗るはずだった国内線は飛ぶこと自体がキャンセルとなり、一便遅いものになった。今となってはそんなことはあまり関係ない。一便早いものに乗っても、ハンブルク空港は素晴らしく夜なのだ。中途半端な夜より素晴らしく夜の方が素敵なはずだ。
フランクフルト空港にはいろいろな人がいた。僕とは二度と会うことのないカップルが抱き合い、僕とは二度と会うことのない家族連れが泣く子供をあやし、僕とは二度と会うことのない若者が美味しそうにビールを飲んでいた。多くは僕には関係ないものだったけれど、若者のビールだけはいいアイディアな気がした。
ノルウェイの森を聴く
フランクフルト発ハンブルク行きのエアバスA321はやっぱりエコノミー席に私を乗せて飛びたった。雨なんて降っていない気がしたけれど、窓には水滴がついていた。空港の光りを乱反射してとても美しく感じた。機内は暗かった。飛ぶ空もやはり暗かった。
やることもないので、ずっと暗い空を見ていた。私の顔が窓に映る。十分に37歳だった。幾分疲れていた。あらゆることに疲れていても仕方がない。それに日本をたってすでに16時間も経っているのだ。日本はいま何時なのだろう、と考える。やがて何時でもいいか、と思った。
機内サービスはシンプルだった。ペットボトルの水とチョコレート。ルフトハンザのロゴマークに包まれたチョコレートだ。いつか食べようと思ってポケットにしまったけれど、いつのまにかどこかに行ってしまった。美味しかったのだろうか。
機内で「ノルウェイの森」が流れるかわからない(おそらく流れないだろう)ので、スマートフォンにいくつかのノルウェイの森をダウンロードして日本をたった。有線のイヤフォンも準備した。ノルウェイの森を聞く準備は万全にしてある。
やがてエアバスA321は下降を始める。1時間ちょっとの空の移動。飛び立ったと思った次の瞬間にはもう降り始める。静かな機内だった。誰もが疲れ眠っているようだった。人も飛行機も、街も、全てが。私は起きていた、ずっと。静かに呼吸をしようと心がけた。
飛行機はハンブルク空港に着陸した。雨は降っていなかった。今にして思えば不思議なことだ。私がドイツにいる間、この時間になると必ず雨が降った。体を芯から冷やすような雨が降って、街の光をぼやけさせ、さっきまでとは違う世界を作った。
シートベルト着用のサインが消えた。やはり機内には音楽は流れない。乗客のたてる気だるそうな音だけが響く。私はイヤフォンをつけた。オーケストラが奏でる「ノルウェイの森」を聴く。これをするために、そのためだけにハンブルク空港に降り立ったのだ。
イヤフォンからノルウェイの森が聴こえる。オーケストラがノルウェイの森を奏でている。主人公と同じように私にも混乱が起きた。激しい混乱。今までに何回も聴いたことはあるけれど、混乱するのは初めてのことだ。37歳の秋にハンブルク空港でノルウェイの森を聞くと混乱するのだ。
その混乱は主人公とは大きく異なるものだった。「なにもない」という混乱だ。直子のことを思い出すこともない。だってそんな人は私の人生にはいないのだから。ビートルズの「ノルウェイの森」の思い出もない。誰かと聴いたことなんてないのだから。何も感じない、という混乱だ。ここまで来て何も感じないのか、という驚きから起きる混乱だ。
ハンブルク空港まで遠かったけれど、何にも感じない。自分の人生が思い出されないのだ。思い出すのは機内食やスパークリングワインの飲み放題のことばかり。ほんの数時間前のことだ。私の人生はあるいは幸福なのかもしれない。僕は随分と失い損なって来たと思うけれど、何も感じない。私は楽天的な人間なのだ、たぶん、おそらく、きっと。
ノルウェイの森では主人公が混乱している様子を見てCAさんが「大丈夫?」と声をかける。私も荷物を取り出す時に頭をぶつけて、偶然前にいたCAさんに「大丈夫?」と声をかけられた。「大丈夫です、ありがとう」と私は言った。こんなやりとりはノルウェイの森にもあるけれど、本質的に異なるやりとりだ。何も感じないのだ、頭を打った痛み以外は。
飛行機を最後に降りた。静かな空港は知らない世界のようだった。私の前には誰も歩かず、私の後ろにも誰も歩かない。飛行機を降りてからのしばらくは私だけがいた。
ハンブルク空港から出ると秋は終わっていて、すっかり冬だった。
僕は深呼吸をする。私は深呼吸をした。吐き出される白い息がオレンジ色の常夜灯に照らされ、面倒臭そうに宙を舞いやがて消えた。座りたかったけれど、椅子なんてなかった。
ハンブルクの街で
この記事は上記で終わりなのだけれど、せっかくハンブルクまでやって来たので、次の日に街を歩いた。ハンブルクはすっかり冬で光は弱く曇り空だった。初めてのドイツ。街は美しかった。私の知らない世界だった。
ここまでギリギリ保っていたけれど、先にも書いたように私は楽天的な人間なのだ。必ずしもそうではないのだろうけれど、楽天的な人間はふざけたいのだ。それが本来の姿なのだ。ということで、我慢できなかった。ふざけた。心ゆくまでふざけた。気持ちがいい。
わざわざダンキンドーナツを探してコーヒーを飲んだ。村上春樹さんの小説によく登場するのだ。探すほどもなく、ドイツには多くのダンキンドーナツがあった。幸せな舌を持つ私には新聞紙みたいな味はせず、「美味しい!!!」と言いながら勢いよく飲んだら、めっちゃ熱かった。
ハンブルクは「Hamburg」と記すのだけれど、発音を聞いていると「ハンブルク」ではなく、「ハンバーグ」に聞こえた。調べてみるとハンバーグの発祥がハンブルクらしい。嘘か本当か、そんなことはもはや関係なく、食べたかったから食べた。Hamburgでハンバーグ!!!
時間はすぎる。数日後、私はドイツから日本に帰るために空港にいた。入り口があれば、出口がなければならない。行ったら帰らなければならないのだ。行きの飛行機があまりにキツかったので、もうノルウェイの森の主人公のことなんて乳鉢ですりつぶして、ワンピースを着て帰った。たぶん主人公の性格と真逆。楽なのだ、ワンピースで飛行機は。ちなみにトレーナーはドイツの無印良品で買った。
ノルウェイの森
30歳になった時に思った。37歳になったらノルウェイの森を体験しようと。もしその時、私が結婚していて、幸せならばやらなければいいと思った。でも、特にそんなことはなかったので、これはチャンスと体験した。7年前の私に言いたい。元気だよ、と。そして、3年後の私に聞きたい。元気だよね? と。おそらく元気だろうと思う。ハンブルクのどこかの椅子に座りながらそんなことを思った。
出展
「ノルウェイの森」村上春樹 講談社 1987