平家はおごっていたから滅んだのか:気候変動という視点 — 中塚 武

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壇ノ浦で沈んだ平氏の亡霊を描いた、歌川国芳による浮世絵。
左には亡霊にまとわりつかれているヘイケガニが、右には薙刀を持った平知盛が描かれている。
出典:Wikipedia

名古屋大学環境学研究科・教授 中塚 武

現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも詳しく描かれた「石橋山から壇ノ浦までの5年間に及ぶ源平合戦の顛末」は、幕末と戦国に偏りがちなNHKの大河ドラマの中でも何度も取り上げられ、多くの日本人がイメージする日本史の重要な要素となっている。

その中では必ず「おごれる平家は久しからず」という『平家物語』の歴史観が描かれるが、果たして平家は本当に「おごっていたから滅んだ」のだろうか。

ここでは私自身が最近上梓した『気候適応の日本史』(中塚 2022)を参照しながら、気候変動という角度から源平合戦に対する新しい見方を提案して、さらにその現代的意味を考えてみたい。

現在、CO2による地球温暖化が問題となっているが、前近代にもエルニーニョ現象や火山噴火などの自然要因で気候は変動していた。

これから起きる温暖化を正確に予測して社会の対応を決定するためには、気候への人間活動の影響を自然の変動から分離して評価しなければならない。そこで産業革命前の過去数千年間の気候変動を年単位で復元する研究が21世紀になって世界中で行われるようになった。

その定番の方法が私の専門である樹木の年輪を使う方法であり、アジアでも広域の年輪幅のデータベースを用いて図1のように東アジアの過去1200年間の夏の気温の変動が年単位で復元された(Cook et al., 2013)。

こうした高時間分解能の気候データを日本史の記録と比べるとさまざまな発見がある(中塚監修 2020-21)が、歴史上の飢饉と気温の間には「法則的な関係性」があることも分かってきた。それは数十年の周期で気温が変化したとき、つまり「10年、20年続く温暖期のあとに寒冷化が起きたときには、決まって大飢饉になる」という関係性である(実際には数は少ないが温暖期の干ばつによる飢饉もあって、それは図1には含まれていない)。

前近代の日本は水田稲作を主体とした農業社会であり、冷夏など夏の気候の悪化は凶作を介して飢饉につながった。特に10年以上の豊作に慣れて備えが疎かになった時代に凶作が社会を襲えば、人々に大きな被害が出たことは容易に想像できる。

図1 東アジアの夏の気温の変動と日本の歴史的大飢饉

図1からは平家の興亡は、9世紀以降徐々に低下してきた気温が12世紀中ごろに突然上昇に転じて顕著な数十年周期の変動が始まった、正にその時に起きたことが分かる。よく知られた平家興亡の史実を気温の変化と重ねてみると、とても興味深い(図2)。

保元・平治の乱を経て平清盛が権力を握った1150年代は、空前の温暖化が起きた時代である。この時の温暖化は顕著な気象災害を伴っておらず(藤木編 2007)、夏の高い気温は水稲生産力の急拡大をもたらして、全国から農作物を京都に集める強制組織としての武家の役割が高まった可能性が指摘されている。

1160年代も安定した良い気候が続き、高い農業生産による莫大な財力を使って平家は快進撃を続けた。現在の神戸での大輪田泊の修築も、よく言われる日宋貿易の促進というよりも平家の領国が広がる西日本各地から生産物を効率的に都に集めるために行われたとも考えられる。しかし良い気候は永遠には続かず、1170年代には寒冷化に伴い気象災害も増加して平家と王家の関係は急速に悪化してしまい、1181年にはついに養和の大飢饉が起ってしまう。

その後の源平合戦の顛末は良く知られている通りだが、図2からは、1150~60年代の気候の好適化によって「おごっていた」あるいは「うかれていた」のは平家だけでなく東国の武士を含めた日本列島の人々全員であり、その状況が1170年代に急激に悪化する中で責任を取らされたのが当時の為政者であった平家だった、というのが真相であった可能性が示唆される。

この12世紀後半の数十年周期の気温変動は当時の人々にとって「空前」のものだったが「絶後」ではなく、図1のように15世紀後半まで続き、それは『鎌倉殿の13人』にも登場する北条泰時がのちに直面することになる日本史上最大の飢饉である寛喜の飢饉や、1330年代の鎌倉幕府の突然の滅亡、さらには1460年代の応仁の乱まで、動乱の中世の原因となっていた可能性が指摘できる。

図2.平家の興亡の背後にあった気候変動

数十年周期で気候が変動すると何故社会は大きな影響を受けるのであろうか。簡単なポンチ絵(図3)を使って説明してみたい。

どのような時代・地域の社会でも「人口や生活水準」は、その時代・地域の農業生産力などに規定された「環境収容力」の範囲内に収まっている必要がある。この環境収容力の円の大きさは、現在であればグローバルな流通を反映して「地球全体」、弥生時代であれば「一つのムラ」が当てはまるが、いずれにしてもこの円の大きさを越えて人口や生活水準を野放図に拡大すれば「持続不可能性問題」に直面することになる。

前近代のある時代に、気候が良くなり農業生産力が増えたとしよう。その豊作が1、2年で終わり直ぐに元に戻るならば、人々は束の間の豊作を神様に感謝して備蓄に励むだけだろうが、豊作が10年続くのならば、人々はそれが当然だと思うようになり、出生率を上げてぜいたくをしはじめる。

しかし数十年周期の変動の場合、豊作期は10、20年で終わり環境収容力は縮小に転じる。そのときには豊作期のぜいたくな暮らしになれた若者たちが社会にあふれているので、人口はもとより生活水準の低減も容易ではなく、飢饉や難民、戦乱が大量に発生することになる。同じ大きさの気候変動でも、数年周期でおきるならば、備蓄で乗り切れるし、何より豊作の年にいきなり人口が増えたりしない。

逆に数百年周期でゆっくりおきるのであれば、出生率の調整や技術・制度の革新によって乗り切ることができる。しかし人間という生き物の寿命に相当する数十年周期の変動の場合、予測するには時間が長すぎ、対応するには時間が短すぎることが問題になるのである。

図3.なぜ人間社会は数十年周期の気候変動に脆弱なのか?

こうしたメカニズムはとても単純であるがゆえに、古今東西を問わず人間社会に普遍的なものなのではないだろうか。そう考えて作ったのが図4である。

私の専門は樹木年輪を用いた古気候の復元だが、単に年輪の幅を測っているのではなく年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比というものを測っていて、そこからは水田稲作の豊凶を左右した過去の夏の降水量の変動が正確に復元できる。その詳しい原理を知りたい方は、是非、前述の拙著(中塚 2022)をご覧頂きたいが、この指標は年輪幅よりも精度が高いので日本国内だけでも十分な数のデータが得られ、中部日本の名古屋周辺で過去2600年間の夏の降水量の変動を年単位で復元することに成功した(Nakatsuka et al., 2020)。

そのデータに含まれている「数十年周期の変動の成分」だけを数学的に取り出したところ、先史・古代には約400年に一度の割合で振幅が拡大し、中世以降はほぼ一貫して大きかったことなどが分かった。

そして、その数十年周期の変動の振幅を日本や中国の歴史の年表と比べると、驚くべきことに、日本や中国で政治体制の転換を伴うような大きな社会の変化があるときには、その直前の時代にほぼ決まって、気候の数十年周期変動の振幅が拡大していることが分かった。

夏の気温と降水量の変動は連動しているので、図1にみられた平家の興亡に始まる中世日本の動乱と気温変動の対応は、より大きな世界史的な気候変動と人類社会の関係性の一部であることも分かってきた。

図4.中部日本の夏の降水量の変動と日本史・中国史の対比

図4のデータは私のような古気候学者だけでなく、多くの歴史学者や考古学者にも大きなインパクトを与えつつあるが、それは過去の社会を研究する歴史の考察に留まらず、現代から未来の社会を構想していく上でも大きな意味をもっている。

なぜなら、気候変動に起因する環境収容力の数十年周期変動について描いた図3は、実はあらゆる種類の自然や社会の変動によって、現在も起きているからである。

「数十年周期で環境収容力が変動すると人間社会は甚大な影響を受ける」。このことは現在進行中の「地球環境問題」はもとより、これまでにも多方面から議論されてきた「経済循環」などの社会に内蔵されているさまざまな現象にも当てはまる。

高時間分解能での古気候復元研究の進展の中で、図4のように明らかとなった数十年周期の気候変動と人類史の普遍的関係性は、過去・現在・未来の人類への無限の教訓が歴史の中に埋め込まれていることを意味している。その歴史の教訓から学ばない手はない。

少しでも興味を持たれた方には、是非とも拙著『気候適応の日本史』をご覧頂き、人類の未来を切り開く熟慮の輪に入って頂けることを切に願っている。

【参考文献】


編集部より:この記事は国際環境経済研究所 2022年5月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は国際環境経済研究所公式ページをご覧ください。

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