新型コロナウイルス、人権問題、ウクライナ情勢etc・・・問題山積の渦中で開催された北京オリンピック開会式。
現況下での五輪開催には疑問を持っていた私だが、昨日行われた開会式の演出は実に見事だった。
と言うより、これほどまで胸に迫り感極まるほど、オリンピックの意義や世界平和、地球環境に対し想いをいたした開会式はなかった。
開会式演出は、2008年夏の北京オリンピックに続き、世界的映画監督の張芸謀(チャン・イーモウ)氏。
「紅いコーリャン」や「菊豆」といった張監督の作品を、彼と同期である「覇王別姫」の陳凱歌(チェン・カイコー)監督作品とともに、私は学生時代、映画館で熱狂して見て育った。
中国「第5世代」と呼ばれ、文化大革命後に電影学院に入学した彼らの作品はそれまでの中国作品とは大きく一線を画し、社会の因習や国家の思惑によって蹂躙される市井の人々の悲哀や悲劇を生々しく描きながら、どんな抑圧にも屈しない大地に根ざした人間の逞しさを、圧倒的な映像美で描き出していた。
そんな張監督が、文革の悪夢再びと危惧される今日の中国において、どのような大会演出を見せるのか、息を潜めて見守っていた。
まずは、開会までのカウントダウン。
その圧倒的な映像美で心を鷲掴みにされた。
2月4日開催の第24回冬季オリンピック開会に向け、24節気という古代中国で生まれた暦に沿って、中国の大自然の移ろいとそこに息づく人々の営みを、泣きたくなるほどの美しさと慈愛に満ちたカメラワークで切り撮って行く。
さらには会場が滝になり、川になり、大河になり、氷にもなるプロジェクションマッピングの巧みさと、リアルの踊り手との絶妙なコラボレーション。
最新テクノロジーを駆使したからこそ現出できる世界ながら、リアルでしか表現できない“ゆらぎ”の美をそここにしのばせることで、完璧な美の世界が血の通ったものとなっていた。
入場行進で使われた繊細な雪の結晶を模したプラカードが最後に繋がり、91の出場国・地域が集まった一つの大きな結晶となる演出も、オリンピックの趣旨や本質を象徴的に表現していて秀逸だった。
中でも子どもたちの出演シーンのナチュラルさには、ホッと心が緩み希望の光を感じた。
大人たちの硬直した動作や姿勢、不自然な笑顔とは好対照に、強い規制や抑圧をされていない子どもたちの自然な表情や仕種(しぐさ)が、今後どんな大国となっても中国が「人間性」を重んじる国であってくれるかもしれないという希望を与えてくれた。
少なくとも張芸謀監督は、そう願っての演出だったのではと、私は勝手に思っている。
完成度のきわめて高い映像やパフォーマンスにもかかわらず感染症対策や寒さに配慮しグッと時間を短縮し、その分、参加各国の入場にしっかり時間をかけた演出も、高い評価に値する。
各国が思い思いに創意工夫を凝らしたユニフォームには、それぞれの国のアイデンティティや文化、歴史、美的感性がしっかりと刻まれ、参加選手の表情や動きの一つ一つにお国柄がしのばれ、多様な地球に生きる喜びと豊かさをあらためて実感させてもらった。
そしていよいよ迎えた聖火点灯の大団円。
誰しもが、大中国のオリンピックにおける点火式はどんなにか盛大なものになるのだろうと予想していただろう。
ところが、なんと点灯は小さなトーチをそのまま、参加国名が記された雪の結晶の中央に取り付けるという、それだけだった。
環境問題に配慮してという見方もあるのかもしれないが、このトーチの灯がまた今にも消え入りそうなほどあまりに儚げなのだ。
たしかに現在のオリンピックはこの聖火のように、国同士の争いや環境破壊、拝金主義などによって“風前の灯火”の如く揺らいでいる。
しかし、だからこそ今、世界中の人々が心を一つに合わせて、この灯、この世界、この地球が消えてしまわないよう守らなければ!
少なくとも私は、この聖火から張監督のそんなメッセージを感じ取った。
そう言えば、掲揚された中国国旗と大会旗に吹き付ける風も少々強過ぎて、旗が捩れ美しく靡いていなかった。
最初から最後まで全てが完璧に美しく演出された開会式の中で、あの旗の身を捩るようなはためきは、私の心に大きな引っ掛かりを残した。
すべては穿った見方で、単なる私の妄想に過ぎないのかもしれないが、今回の演出を行ってくれた張芸謀監督と、その演出を現実のものにして全世界に発信してくれた多くの心ある中国の人々の勇気に、心からの賛辞を贈りたい。