ある日、塾に行ったら先生の耳がなくなっていた。世にも奇妙な衝撃エピソードを体験したのは私(中澤)が小学校低学年の時である。
・生まれ育った町
大阪南部の田舎町で育った私。駅からは山が見えて、その駅までも歩いて1時間くらいかかるような場所だった。そんな中、近所に1つだけあったのが塾長ワンマンのそろばん塾。中学校の脇の舗装が信じられないくらいぼっこぼこの道にあって、木造平屋の寺子屋みたいな建物だった。
・F先生
塾長にして講師のF先生は思いっきり大阪南部のオッサンでガラが悪かった。恰幅の良い角刈りで、イメージはスウェットに腹巻と雪駄。声もダミ声気味で、怒った時は頭をそろばんでガリガリやられるのがめっちゃ痛い。たまにツッコミでもやってくる。ツッコミでやる時は痛くない。
・前梃子
その年、F先生は、地車(だんじり)祭で前梃子(まえてこ)だった。車輪のついた山車を大人数で引く地車。その様子は参勤交代みたいに大仰で、ダッシュで交差点を曲がる「やりまわし」が見どころの1つである。
そのやりまわしの際に活躍するのが前梃子。地車には大勢が引く綱以外に前に棒がついている。その棒を前梃子と呼ぶのだが、ダッシュしながら曲がりたい方向に前梃子に力を加えることで、独楽の要領で地車がドリフトする。これがやりまわしの原理だ。
私の住んでいる地区にはだんじりがなかったため、前梃子がどれくらいの地位か分からないが、地車を引く人って大人も大勢いるから多分凄いんだと思う。子供心にはそれくらいの理解だった。
・地車のない地区の子共
まあ、前梃子だったことを知ったのは後になってからだけど。地車のない地区の子どもにはそんな詳細な地車情報は回ってこない。今から考えると、そういった地車を持つ地区だけで共有される地車情報や地車あるある、それによるローカルヒーローの存在が地区の結束を高めていたように思う。
ゆえに、1年が地車中心に回ってるような同級生を見る度、蚊帳の外感を感じずにはいられなかった。また、地車が唯一の娯楽みたいな町だったため、群衆の中の孤独みたいなものもなかったと言えば嘘になる。
とは言え、町に人があふれる地車祭の雰囲気は好きだった。いつも閑散とした田舎町が人であふれる2日間は夢みたいで、普段は外出しない夜に町に出た時なんて異世界に迷い込んだかのようなワクワクを感じていたことを覚えている。夜に会う同級生の顔は学校とは違うように見えた。
・衝撃の出来事
というわけで、なんだかんだ2日間の地車祭を堪能して夢冷めやらぬ週明け、塾に行ったら、F先生の顔面がヤバイことになっていた。包帯がぐるぐる巻きなのである。
包帯を巻いてる人も初めて見たのだが、顔面に巻いてるのはヤバイ。マンガみたいだ。死ぬんじゃないかと思った。そこでF先生に話を聞いたところ、「前梃子で事故って片耳がとれた」とのこと。いや、とれたてオッサン。
その後、女の先生(多分奥さんかな?)が代役を務めたりしつつ、包帯がカップみたいなのになったF先生がカムバック。そのカップもなくなった時、先生の耳は半分以下の大きさになっていた。ちょっとだけ残ってる。ってか、耳ってとれて大丈夫なん?
F先生に聞いてみたところ「とれたもんはしゃあないやないか!」と笑った。「まあ、耳だけで済んでよかったわ」とも。そのあっけらかんとした感じに爆笑したことを覚えている。その後、F先生の耳は塾の子供たちの鉄板いじりネタになったのであった。
・地車も時代につれ
当時、やりまわしの最大の見せ場は、町で一番発展していたジャンボニチイ前の交差点。ここのヘアピンカーブをやりまわしするのが最大の見せ場であり、昼頃に全部の地区が次々とやりまわしする様子が「パレード」と呼ばれ、人気を集めていた。
その時間帯にはヘアピンカーブ沿いは、花火大会くらい人でぎゅうぎゅうに。やりまわしに失敗して地車が倒れることも結構あって、毎年ヘアピンカーブ沿いの電柱がナナメったり、ビルが破損したりしていた。
特に危険なのはカーブ内側で、そこに陣取る見物人はそれ込みで迫力を楽しんでいた節がある。危険ゆえに地車を引いている人くらい祭りに参加している感じを味わうことができるのだ。
そんなヘアピンカーブのやりまわしも7年前に祭りの時期に帰った時にはすでに無くなっていたので、「地車祭も時代と共に変わってるんだなあ」と思った次第。
とは言え、オシャレをして地車を引く地元の子たちには、私が子供の頃と変わらない晴れ舞台という雰囲気もあった。変わっていくものと変わらないもの。その間で地車は揺れているのかもしれない。
執筆:中澤星児
Photo:Rocketnews24.