羽田を離れる飛行機の窓から東京湾のきらめきを眺めながら、僕は妙に心が落ち着かなかった。
今回の旅は特別だ。ロンドンへ向かう目的はあの老舗オーディオブランド、マーシャルグループに招かれたからだ。
マーシャル――それは僕にとって、色褪せることのない青春の象徴であり、ロックそのものだった。
マーシャルを創設したジム・マーシャルという男を、僕は二十年以上前にインタビューしたことがある。それはバンド演奏を志す若者向けの音楽誌での企画記事だった。
まだ無名で駆け出しだった僕に対して、すでに伝説的存在となっていたジム・マーシャルは優しい微笑みを浮かべ、静かな語り口で丁寧に答えてくれた。その時のやわらかな雰囲気と、穏やかな彼の声は、今も鮮やかに記憶に刻まれている。
卓越したドラマーでもあったジムは、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのミッチ・ミッチェルにドラムを指導し、ザ・フーのピート・タウンゼントの要望に応えて、パワフルで歪んだサウンドを可能にする「マーシャルアンプ」を生み出したのだった。
しかし「ラウド・サウンドの父」と呼ばれながらも、彼はいつも穏やかで物静かなジェントルマンだった。
英国ブランド「マーシャル」の歴史はギターアンプからはじまった
翌日、僕はロンドンからバスに揺られて2時間、マーシャルアンプ工場のあるミルトンキーンズを訪れた。そこはロックの騒々しいイメージとは裏腹に、静かな田園が広がる平和な場所だった。
マーシャルの工場はガラス張りのモダンな建物で、初めて目にしたとき少しばかり意外に感じた。しかし、そのガラスに映り込む薄曇りのロンドン郊外の空やくすんだスモーク・グリーンの風景は、僕が長年心に抱いていたUKロックの聖地そのものだった。

工場の入り口には創業60周年を祝うパネルが飾られ、隣には1923年に生まれ、2012年に世を去ったジム・マーシャルの写真が飾られていた。それは伝説の三段積みアンプのキャビネットに描かれたものだった。
僕はその前で足を止め、静かな微笑みを浮かべるジムの顔をじっと眺めた。彼が創りだした音がいかに多くの人々の胸を震わせてきたか、その重みを改めて感じていた。

工場内に足を踏み入れると、アンプキャビネットを仕上げる職人たちの静かな集中力に引き込まれた。
マーシャル特有の、シボの入った天然皮革を丁寧に広げ、木製のフレームに一つひとつ鋲を打ち込んでいく。その緻密で滑らかな動きには、一切の無駄がなかった。特に年配の職人の手さばきはまさに芸術的で、僕は時が止まったかのようにじっとその指先を見つめ続けていた。
彼らは誰一人、安全手袋を使っていない。ケガなどするはずもない――そんな自信と誇りが、彼らの静かな動作から伝わってくるようだった。彼らにとって、素手でなければ伝わらない微妙な感触やニュアンスがあるのだろうと僕は感じていた。
創業者「ジム・マーシャル」を知る男

「スティーブ・ヒルだ」と自己紹介した男は、この工場に四十年勤めているという。彼に昔、ジム・マーシャルにインタビューしたことを伝えると、スティーブは温かい眼差しを浮かべて言った。
「ジムはいつだって穏やかで、いつもミュージシャンたちのことを考えていたよ」
僕らはしばらく静かな工場の片隅で、ジムのことを語り合った。

工場の一角に設けられた特設スペースには、歴代のミュージシャンたちがサインしたアンプが並んでいた。ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュに並んで、僕の目を引いたのはポール・ウェラーのサインだった。その前で足を止めた瞬間、まるで過去の時間が僕の前でゆっくりと巻き戻されるような感覚を覚えた。
英国の高級ギターショップで体感した「マーシャル」の痕跡

ロンドンに戻り、ジムが最初に開いた店があった街を訪れた。時が止まったような佇まいのレコードショップやギターショップが並ぶその通りは、どこか懐かしい空気が漂っていた。「Regent Sounds」という店に足を踏み入れると、かつてローリング・ストーンズがリハーサルを行なったという伝説の場所の空気感が静かに僕を迎えた。

英国特有の洒落たギターショップの内装は、日本の店とはまるで違い、ビンテージ家具店のようだった。
「この白いギター、試奏してもいいかな?」
無愛想な店員からリッケンバッカー「360」を受け取り、耳でチューニングを整え、奥に佇むマーシャルアンプにプラグインする。「E」のコードを響かせた瞬間、音が時を超えて何かを語りかけてくるような気がした。

「いい音だろう」。いつしか店員は微笑みながら言った。
「マーシャルというとラウドな歪みを連想するだろうけど、クリーンサウンドも素晴らしいんだ」
その短い会話で僕らは急速に打ち解けた。マーシャルという音楽の魔力が、確かにそこにはあった。

やれやれ、ロンドンとマーシャルは切っても切れない関係だ…


旅の終盤、「ROUGH TRADE EAST」とショーディッチを代表する歴史あるパブ「The Old Blue Last」でライブを楽しんだ。伝統と現代が静かに交錯するその空間は、マーシャルの精神を象徴するようだった。
「UKロックを愛するファンにとって、これ以上にブリティッシュな空気を味わえる場所はあるだろうか?」
僕はふと心の中で問いかけた。
「今まさに、その空間の真ん中に自分は立っている」
そのことが、静かな喜びとなって胸に広がっていた。

旅の最後には、マーシャルの新製品となるサウンドバー「Heston 120」を聴いた。

映画館にいるような音響が僕を包み込んだ。「何を聴きたい?」というスタッフの問いに、僕はザ・フーの「マイ・ジェネレーション」を選んだ。
かつてジムが語ったピート・タウンゼントとの逸話を心に刻みながら。
若手ミュージシャンの兄貴分のような存在であり、卓越したドラマー兼技術者だったジム。一方、激しいステージアクションとは対照的に、普段は知的で穏やかなピート。1960年代の「スウィンギング・ロンドン」を舞台に、理想的なギターアンプを夢見ながら静かに語り合う二人の姿が、僕の頭の中で鮮やかに蘇ってきた。
僕はゆっくりと息を吐きながら、マーシャルというブランドが今もなお、変わらぬ輝きを放ち続けていることを静かに感じていた。

ロンドンを去る飛行機の中で、僕は再びジム・マーシャルの優しい微笑みを思い浮かべていた。この旅は、僕にとって静かで深い余韻を残す小さな巡礼となったのだ。
Source: Marshall Official Website